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『abさんご』和田ながらチーム・ワークインプログレス観劇レポート|三浦雨林

 こんにちは、鳥公園アソシエイトアーティストの三浦雨林です。
 今回は、黒田夏子作『abさんご』の和田ながらチーム・ワークインプログレスの観劇レポートです。公演概要はこちらからご覧ください。

 【鳥公園の『abさんご』2022/研究 「近代的な個の輪郭をほどく演技体――『abさんご』を経由して、劇作論をしたためる――」】についてはこちらをご覧ください。

上演地

 「『abさんご』の上演をするぞ!」となった時、どこで上演するのかが目下の問題になると思う。果たして劇場で上演することが有効な作品なのか?そうでなければ野外か、民家か、劇場ではないスペースか…可能性は無限にある中でながらさんがどういう場所を選んだのか、想像を膨らませながら新幹線に乗った。

 今回ながらさんが選んだのは、京都市内にあるSocial Kitchenという小さなスペースだった。一階がカフェ、2階がアトリエスペースとなっていて、木の温かみのある建築や家具、マスターの人柄が体の緊張を解かしてくれるような空間だった。ながらさんがどういう意図でここを上演地に選んだのかはわからないが、『abさんご』を試行錯誤するにはとても心地よい、土地に馴染んだ場所だった。

上演の構成

 上演開始直後、ながらさんにより入場時にもらったテキストを読むことを促され、観客は黙読をする時間が与えられた。上演の構成は【受像者】【草ごろし】【虹のゆくえ】の順番に黙読→上演が繰り返された。
 『abさんご』を読んだことがある方はわかると思うが、この小説は自分のペースで読んでいても一巡するだけでは意味を取るのが本当に難しい文体で、それが発語され消えていく声となれば益々理解が出来なくなっていくだろうことは想像に難しくない。上演の際、観客にどのように"聞いて"もらうかを、ながらさんチームはまず観客自身に"読んでもらう"というシンプルでストイックな方法によって提示しているようだった。

文字の立ち上げ

 出演者は男女2人。各章をそれぞれ1人づつで立ち上げていた。
 2人はテキストをインストールしており、観客の手元に配られた『abさんご』の原文がそのまま発語されていた。2人の癖のない無味無臭な発語は、書かれている文字を実直に立ち上げているように思えた。それは明確に文字→声にするための試みだった。まるでフォント・サイズ感のような視覚的な文字情報をそのまま声に翻訳しているように。

 発語の無味無臭さは、視覚的な文字情報の翻訳もあるかもしれないが、ながらさんは"カメラワーク"をクリエイションの大きな軸にしていたため、声による情報量が減らされることで必然的に俳優の視線や体に観客の意識が向くようにしていたのかもしれない。

視線

スマホのカメラで空間を写す俳優 金子仁司(kondaba)さん

 俳優は自身がテキスト内容に記された主体となる時(いわゆる演じる状態)と、内容よりも俯瞰した位置にあるテキスト自体となる時があったように見えた。
 前者は、自分と対象はお互いに"見る/見られる関係"であるが、後者は"自分だけが見る/対象が見られる"という関係性であり、これが俳優2人の演技によって表出されていた。
 『abさんご』は語っている主体と俯瞰を行き来するように書かれている。上演にて発語している俳優の「今何として、何を見て語っているのか」が視線によって表現され、様々な次元で物を見る語り手によって観客が振り回されているような状態は、まさに『abさんご』を読んでいる時の感覚に非常に似ていた。

 また、【草ごろし】の途中でスマホのカメラが用いられていた。カメラを起動したスマホの画面に、向けられた対象が映し出され、俳優の身体と共に画面内の景色が変わっていく。今目の前で空間が視覚によって切り取られている様子は、むしろ撮影者だけが見えていて画面に写っていないものへの想像を非常に膨らませられるものだった。
 カメラは、こちら側だけが見ているような気分にさせる。

会場に向かう時に撮った写真・私による空間の切り取り


 ながらさんはアフタートークにて、「わからなさがネガティブなストレスになると良くないが、何を言っているかわからなくても満足がある方にしたいと思っていた。」と言っていた。
 個人的には、テキストが手元にあるとわかろうとしてしまう度が上がり、それによってわからない度も上がってしまうように感じたが、例えば今回の形式で観客はテキストを与えられず、本当の宇宙に放り出されていたら、果たしてどう感じていたのだろう。


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