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子供は親を選べないが、人生は自分次第で選べる

母親が居ない地獄の小学生時代

妖鶴は横浜で生まれ育ちますが、小学校1年の時に母親は夫婦仲の折り合いが悪く失踪。
母親がいなくなった毎日は辛く寂しく、夜になるとこのまま死んでしまいたいと思う事が多かったそうです。朝になって目が覚めれば母親が居ないことを思い出してしまうからです。6歳にして、このように既に鬱病のような日々。当時はそのような児童への精神的なケアなども全く行われておらず、ほぼ放置状態です。

そんな毎日の中で、自ら辛く苦しい日々を忘れるために没頭したことが、ひたすら新聞広告の裏に鉛筆を走らせ自由に絵を描くこと。母親との思い出の中で、描いた絵を褒められた事が忘れられなかったのでしょう。あまりもの生き苦しさの中で、なんとかすがり付いたのが絵を描く事だったのです。紙と鉛筆さえあれば、そこに没頭することで全てを忘れる事が出来る魔法が絵を描く事だったのです。


手塚治虫「火の鳥」との出会い

そんな妖鶴をみて、父親は手塚治虫の「火の鳥」を全巻買い与えてくれたそうです。妖鶴は夢中になって火の鳥を読み漁り、いつかは手塚治虫のような漫画家や絵に関わる仕事に就きたいという夢を持つようになります。

母親が失踪しなければ、ここまで絵に没頭するようにはならなかった可能性も大きいですし、父親が火の鳥全巻を買い与えてくれることも無かったのかもしれません。
妖鶴の彫師人生の始まりは、まず6歳の頃に母親が失踪してしまったことから。その寂しさや悔しさなど、受けた心の傷を自分で癒すセルフメディケーションとして、ひたすら絵に向き合ったのです。

住宅設備の職人だった父親は男手ひとつで妖鶴を育てます。しかし生活は決して豊かではなく、妖鶴は塾にも通わせてもらえませんでした。おかげで学校の成績は最低です。授業が全くわからないので授業中にはノートに絵ばかり描いていたそうです。

中学に上がって思春期に入ると、それまで子煩悩だった父親の様子がおかしくなってきます。妖鶴の布団に入り身体を触ってくる事が連日のようになります。最初は現実に起こっている事として認識出来ず、ただ寝たふりをして、じっと耐えるしかなかったそうです。

やがて考えるようになったことは、もしも父の、この非道なおこないを学校や警察にバラしてしまったら、その先にどうなるか?ということです。おそらく、この父親、自分、妹の3人家庭が壊れ、妹にも何があったのかが知れる事になる。父は逮捕され、自分たちは児童養護施設に入れられてしまい、自分が絵に関わる仕事をする夢も叶わなくなるだろうと予想が付いたのだそうです。

父親による性的虐待が発覚しにくい理由は、これによって一家の大黒柱がいなくなり家庭が壊れてしまうことを避けたい心理が子にも働くこと。逆に言えば父親はそれに乗じてエスカレートしてゆく事が多いようです。そして妖鶴の中学校2年間も御多分に洩れず、ひたすら耐える日々が続いたのだそうです。

中学2年の時には、父の非道な行為にいよいよ耐え難くなります。そしてついに勇気を出し、父親に大声で怒鳴りつけ悪行を制止させたのだそうです。それ以降は父親が布団に入ってくる事は全く無くなります。


漫画ばかり描いていた中高時代

このように、勉強には全く集中出来る環境で育っていなかった妖鶴です。

かといって進学を諦めてドロップアウトする気もなく、なんとか学区内で最底辺の高校に滑り込みます。幼少期から常に周囲の両親が揃っている家庭に大きな劣等感を感じていた為、せめてマトモに真面目に生き、人から後ろ指を指されたくない気持ちが強かったそうです。そのため、グレてしまうような甘えた気持ちが無かったんだそうです。不真面目な生徒の多い高校内では比較的真面目な方だったと言います。

高校生になってからも家庭内では微妙な緊張関係のある父子家庭が続きます。同じ家に住みながらも、ほぼ会話はなく、妖鶴はひたすら部屋に閉じこもって同人マンガを描き続ける日々です。

ドラゴンボールの同人マンガは幸いにして好調な売れ行きとなっており、毎回印刷にかけたものが完売し、その資金を印刷に投入することで売り上げは倍々ゲームとなっていったそうです。妖鶴は高校時代に、自分の描いたもので高校生としては大金と言える収入を得る経験をしたのです。

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高校時代に初めて自分の絵でお金を稼ぐ経験をした貴重な原点ともいえる、同人マンガ


同人マンガでお金を稼げる事を知った妖鶴は、ますます自分の絵で生計を立て親元から独立することを夢見るようになります。そのためには父親を金銭的なスポンサーと割り切って学費を出してもらうしかない。だから同居生活を続けるしなかったと言います。

この頃の妖鶴は自分の夢を叶えるために、並大抵ではない意志と精神力を持つようになるのです。


デザイン専門学校に進学

妖鶴は同人マンガで徹夜し数をこなすような描き方をおこなった事で鍛えられ、高校内ではトップクラスに描けるようになっていたそうです。さらに美術部の顧問の先生が担任になって懇意となる偶然も有り、デザイン専門学校に進学する事を決めます。

妖鶴はもともと小学生の頃から手塚治虫のような漫画家になる事を夢見ていました。高校3年間は絵の上手な友達と2人でユニットを組んで、ドラゴンボールの同人マンガを描きコミケで完売させる事を繰り返していましたが、その過程で、なんとなく自分には漫画家が向いていないと考えるようになり、現実路線の中で絵を描く事を活かせる職業として、グラフィックデザインの道に向かう事を決めます。

そして高校を卒業すると東京原宿にあるデザイン専門学校に入学します。

専門学校在籍中にクラスメイトだったのが、滋賀で創業され全国の有名百貨店にショップを持つ、和菓子ブランド企業、たねや(洋菓子部門クラブハリエ)の御曹司でした。

妖鶴は専門学校で2年間のデザイナーとしての基礎的な勉強を修めた後、就職活動がスタート。妖鶴が当時お付き合いしていた同じ学校の同級生が、卒業後にたねやのデザイン企画部に入社出来るコネを得たと聞きつけ、それについて行く形でたねやに入社することになります。


有名ブランド企業のたねや、クラブハリエに就職

当時、たねやの山本徳次社長は和菓子ブランド経営者として目の付け所が鋭く、ブランディングの優位性がその後の企業価値向上の鍵になる事を見抜いていました。その為には、社内でクリエイティブを内製出来る体制を作り上げる必要があり、当時始まったばかりだったデザインのデジタル化の一環としてApple ComputerのMacを中心としたシステムをいち早く導入。そのオペレーター&デザイナーを育成する為に、東京のデザイン学校に子息を入学させ、そこでクラスメイトをスカウトする形で滋賀に連れて帰らせたのでした。妖鶴は運良く、その新設部署にデザイナー見習いとして入社させて頂ける好機を得るのです。

ここで妖鶴は、当時まだ大変高価で個人購入する事がなかなか難しかった最新型Macintoshのフルシステムを自分専用に使い倒せる立場となり、5年ほどに渡ってadobe IllustratorやPhotoshopを習得。手書きイラストや写真などを組み合わせ、様々な商業グラフィック作品を作り出せる実戦的スキルを身に付けます。


会社から独立後、北海道移住してからお仕事をいただいたパッケージデザイン作品

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学生時代に読み書きを含め、全く勉強してこなかった当時の妖鶴は、仕事に出てくる様々な用語や一般常識の吸収に必死になったそうです。当時使っていたメモ帳には様々な書き記しが雑多に入り乱れ、苦労の後が残されていました。ずっと絵だけに集中して来て、社会人になってから慌ててそれ以外の勉強をして、やっと仕事の実務に対応出来る総合力を手に入れていったわけです。

その後になって、たねやが東京の日本橋にデザイン企画制作の子会社を立ち上げる事になり、その会社の専属イラストレーター、グラフィックデザイナーとして東京に戻ります。そこではたねや以外の会社からのデザインの仕事も経験し、社外デザイナーの仕事の進め方を学んでゆきます。

その後すぐに、後に北海道移住を共に行なう事になるKenny.Sと出会うことになります。


出会いのキッカケは出会いの情報誌、じゃマ〜ル

妖鶴とKenny.Sの出会いは、当時コンビニの雑誌コーナーで販売されていたリクルート出版の出会いの情報誌、じゃマ〜ルです。

当時まだインターネットは始まったばかりで、出会いに利用出来るようなインターネットシステムは開発されていません。この雑誌はお互いの住所を明かさずに編集部が間に入って安全に文通が出来る、アナログな仕組みによる出会い系雑誌。ITによる出会いの場がなかった当時としては画期的なアイディアであり、好奇心に溢れた妖鶴とKenny.Sは共に、同時期にこの雑誌を、たまたま手に取ったのでした。

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滋賀から東京に舞い戻ったものの、その人の多さと住環境の悪さ、いつか来ると言われる地震など大災害への脆弱さ、満員電車の通勤地獄などに辟易した妖鶴は、個人で募集広告を掲載出来るじゃマ〜ルに、このように小さな記事を掲載したのです。

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この記事を見たKenny.Sは、住んでいる場所が車で30分程度、しかもデザイナーという職業を持つ妖鶴に興味を持ち、手紙を出してみるのです。

Kenny.Sも当時のサラリーマン生活に限界を感じており、将来、一緒に自分たちで起業出来るクリエイティブスキルを持つパートナーを探していました。
しかも住んでいた横浜ではなく、働いていた東京でもなく、どこか他の地方都市や田舎で起業したいと考えていました。その理由は東京や横浜の土地や不動産の価格が高すぎること、日本中から人が集まっていて競争が激しすぎること、何かに取り憑かれたように競争に明け暮れる東京での生活に人間らしさを感じられなくなっていたためです。東京周辺の環境は、経済面での豊かさを除いて、人が幸福に生きてゆくためには過酷すぎる環境だと考えていたためです。

しかし東京や横浜では、同じ考えで地方脱出を考えてくれる女性は全くおらず、何か新しい方法で出会いのチャンスを探すしかないという結論となり、ダメ元でじゃマ〜ルに文通依頼の手紙を出してみたのでした。


 大反響だったじゃマ〜ル記事

妖鶴の元には、上記のミニ個人広告に対する交際希望の反響が60名以上もありました。その中からただ1名だけ選んで返事をしたのがKenny.Sからの手紙でした。この時点で60分の1の激しい競争に打ち勝って、実際に手紙を交換する権利を得たのが、Kenny.Sだったのです。

数回の手紙のやり取りの後に実際に会ってみると、家がかなり近い上、偶然に同じバイク、HONDAのSTEED400に乗っている。好きなものが同じなのですから、当然気が合うかもしれないと考えます。
しかも妖鶴は20歳の頃に女1人で北海道一周のバイクツーリングをしたほどアクティブで男勝りな性格のロック好きである事がわかり、まるで趣味の合う男同士が出会ったかのように、毎週末をアクティブに遊びにゆくようになります。

妖鶴25歳、駆け出しのたねやインハウスデザイナー時代

しかし折角の新しい出会いだし、どうせなら今までとは少し違ったことで、何か2人で夢中になって協力できることをやりたいと考えたKenny.Sは、それまでのバイクではなく、少し違った遊びの提案をするのです。

付き合い始めて2ヶ月程度でKenny.Sは妖鶴に「シーカヤックっていう海用のカヌーがあるんだけど、それに2人で生活用具一式と米を積んで魚や海産物を自給自足しながら年末休みに西表島を人力で一周しよう!」と提案したのです。

1998年当時のKenny.Sはアメリカのヒッピームーブメントから派生して生まれたバックパッキングカルチャーやアウトドアカルチャー、エコロジー思想に強く惹かれるようになっており、

「これからはアウトドア&エコロジーの時代になる。エンジンなどの化石燃料を使用した移動は将来的にはあまり良くない事とみなされるようになって肩身が狭くなる筈だ。自分たちは一足先に人力の極限に挑んで、青春時代にしか出来ない2人の経験を作り上げてゆきたい。そういった貴重な冒険の経験を心のよりどころにして、将来的には2人で何か起業したい。」

と考えていました。

10代の頃からロックスターの反抗精神に憧れていたKenny.Sは、常に周囲とは違う何か?周囲とは正反対のカウンターカルチャーに憧れており、そのロック精神の一環として、モータリゼーションが当たり前の時代にあえて「全ての自然地形を人力で踏破する」という馬鹿げた夢を持ったのです。

それまでバイクに乗っていた妖鶴は、エンジンではなく「人力」という部分に興味を持ち、身体を使うならダイエットにも良いかもなあ程度でOKしたのが最初の頃のノリだそうです。

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        西表島一周に出かける2人 1998年末

この西表島一周11日間のサバイバル旅の成功で2人は自信を培い、その活動領域を山や川にまで拡げ、その数年後までには、さらに雪山や岩山にまで遊びのフィールドを求めるようになります。

わずか5年ほどの間に数々の冒険を繰り返し、体力と根性の極限的な追求、そして事前調査と計画、実行といった軍隊のレンジャー部隊のような荒業を積みます。当時は会社から帰ると2人で夜ランニングをすることも有りました。それぐらい自分を鍛えることに2人でハマっていました。

当時のKenny.Sは、かつての山岳信仰における、『自然を舞台にした荒業による精神修行』に強い興味を持っており、それを2人でおこなうことで自分たちにも何か超人的でミラクルなパワーを手に入れられるのではないか?と妄想していました。

山岳信仰とは、山岳に宗教的意味を与えて崇拝し,また山岳を対象として種々の儀礼を行うことを言います。 我が国では古来より、山岳が精霊、神々、悪魔などの住む場所として畏敬されてきました。 さらに祖霊のすみか、天と地を結ぶ軸,宇宙そのものと信じられていました。 山岳は修行、祈願、啓示、託宣、祭りなどがなされる場所でもあったそうです。

人生の行き詰まりに悩み、古今東西の宗教本を読み漁っていたKenny.Sは、従来の頭や心で真理を悟ろうとする宗教に疑問を持つようになり、限界に近い負荷を身体に与えることで身体性を通じて何か真理のようなものに辿り着くことは出来ないか?と『身体知』(身体を通じて得る悟りのようなもの)の世界に想像を膨らませていたのでした。

これは様々な精神修行法の中でよく映像に出てくる「滝行」(冷たい滝に頭から打たれる修行法)にみられるように、心身に大きな衝撃や刺激を与えることで脳内ホルモンを分泌させ、そこで得られるポジティブな精神で困難を乗り越える自己イメージを作り上げてゆくというもの。

当時の妖鶴もまた、幼少期の不遇な記憶や少女時代に親から受けた酷い行為による人間不信のトラウマから脱する事が出来ず、両親にも激しい怒りを持ち続けていましたが、その解消方法が自分ではわからず居ました。

ちょうど2人共に全てを忘れて打ち込める何かを求めていました。ですから2人は出会ってからすぐ、それまでの自分の人生を変えるために、自然を舞台に自らを鍛えて成長させることに着手し始めたのです。

その結果としてわずか5年ほどの間に、下記のような日本屈指の本物のフィールドで、人力によるアウトドアアクティビティーを成功させてゆきます。

アルパインクライミング

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劔岳 別山尾根ルート(積雪期)
前穂高岳 東壁|右岩稜|古川ルート、前穂高岳|北尾根
北岳 北岳バットレス|第四尾根
谷川岳 烏帽子岩|南稜、一の倉沢|烏帽子沢奥壁|南稜

フリークライミング(ゲレンデ)湯河原・幕岩、伊豆城山、城ガ崎 

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沢登り

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丹沢エリア(水無川本谷をはじめとした各水系・ホームグラウンドエリア)
大雪山エリア(クワウンナイ川など)
上越、谷川エリア(米子沢、万太郎本谷、赤谷川本谷、湯檜曽川本谷、一の倉沢、マチガ沢、奥只見白戸川など)
南アルプス(黄蓮谷右俣など)

縦走登山(春山~夏山~冬山)

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富士山(厳冬期の訓練登山)
北アルプス連峰(燕岳、槍ヶ岳、東天井岳、奴六岳、三股蓮華岳、真砂岳、唐松岳、白馬岳、立山三山、など)
穂高連峰(西穂高岳~奥穂高岳、前穂高岳、涸沢岳、北穂高岳、明神岳など)
八ヶ岳連峰(硫黄岳、赤岳、横岳、阿弥陀岳、天狗岳など)
北岳(春~厳冬期)
南アルプス連峰(鳳凰三山など)
その他、瑞牆山、奥州武尊山、会津駒ヶ岳、日光白根山、甲武信ヶ岳、丹沢周辺、大雪山、樽前山、カムイエクウチカウシ山、暑寒別岳など


テレマークスキーツアー 

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富士山
北アルプス後立山連峰(雪倉岳、白馬岳、栂池、白馬鑓ヶ岳、杓子岳、唐松岳、不帰、針ノ木岳、蓮華岳、ガラガラ沢、唐松沢、白馬槍温泉、妙高三田原山、赤倉山、前山、神奈山)
北アルプス劔立山連峰(真砂岳、別山、劔御前など)
その他~谷川連峰周辺の各沢、安達太良山、蔵王、ニセコ山系・イワオヌプリ、チセヌプリ、大雪山系・三段山、白井岳、札幌岳、余市岳、富良野岳、前富良野岳、南富良野岳、十勝岳、旭岳、根子岳など

シーカヤックツアー 

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知床半島一周(2回)
西表島一周、岩手県沿岸、積丹沿岸、
粟島~山形沿岸(夜間横断)新潟県沿岸縦断
猿島、伊豆半島沿岸、三浦半島沿岸、積丹半島、田子倉湖、奥利根湖など

カヌーによる川下り 

長良川、那珂川、空知川、気田川、天塩川、美々川、歴船川など


妖鶴とKenny.Sは、このような厳しい自然の中で様々なアウトドアスポーツを、まるで修行のように積み上げ、当初はその喜びを人と分かち合うために2人でアウトドアガイドやペンション経営でもやろうと考え、北海道に移住して参りました。

しかしここで壁となったのは、コアなアウトドアスポーツ普及のネックとなるお金と時間と体力という必要条件の問題です。
北海道にやってきた感じたことは、自分たちがやってきた自然の中における様々なアクティビティーには、お金、時間、体力という3つのファクターが必須となり、多くの人に広げてゆく事が難しい、マニアックで敷居が高いものである事に気がつき始めたのです。
よく考えてみると、東京時代にそういったものを楽しんでいた仲間たちは皆、上場企業社員や公務員ばかり。我々のような中小企業に勤務する人間はかなり特殊な例でした。給与が安定しており、常に体を動かしコンディションを整えられ、しかも長い休暇を取得出来る立場の人が、この北海道には少なすぎる事に気がつくのです。

さらに加え、万が一の事故がおこればガイドには重い責任が課されます。歳をとって体力がなくなれば続けることは出来ません。現実的に仕事として考えてみると、様々なリスクがある事に気がついていったのです。

その後に、コアなアウトドアスポーツよりも、もっと誰にでも空き時間で楽しめる冒険的なセラピーとして「タトゥー」に気がつきます。偶然にタトゥーに出会うキッカケとなる衝撃的な動画を見てしまい、アウトドアスポーツと同じように、それが「身体知」の一つとなり得て、自らの人生の役に立つ可能性が有るという洞察にたどり着くのです。

タトゥーは登山と同じように、一種の身体的、精神的なしんどさを伴いながらも、目標が達成された際の達成感を伴います。目的を達すると人の脳内には快感物質が分泌され、ポジティブな気持ちになる事が出来ます。

ポジティブな気持ちになれるということは、新しい自分に生まれ変わる為の儀式的な効果が得られるということです。タトゥーを途中で止める訳には行きませんから、やり始めたらやりきるしか無い。そのやり切った自信が人生を変えたり、人を癒したりする事が有るのです。それが登山と似ていることに気がつき、店の名前をマウンテンハイとしたのです。

2人がタトゥーの効能に気がつく事が出来たのも、妖鶴とKenny.Sが過酷なアウトドアスポーツで自分を鍛える事に夢中になった人生の一時期があったからなのです。

そして人生には無駄なことなど何もなく、幼少時からの酷い不幸でさえも、その後の自分の生き方次第で、このように一生の道を見つける点と点になることが有るのです。



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