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得撫島戦記
192X年、岩手県に生まれた祖父は、僕にとってはまさに歴史の証人でした。
地元の工業学校を卒業後、東京の電気機器メーカーに就職。
徴兵、応召。ソ満国境の部隊に配属される。
(ご承知の通り、当時ソビエトとは緊張状態)
技術を買われ、工兵として陣地構築等にあたる。
飛んでる一〇〇式司令部偵察機を見たことがあるらしい。
(日本の産んだ傑作機!)
徴兵期間を終えた祖父は、工兵としての任務にやりがいを感じ、軍に残る道を選んだ。
内地に戻り、各種の教育機関で士官教育を受ける
少尉に任官し、小隊長として千島の得撫(ウルップ)島に赴任。
太平洋戦争は勃発していたものの、ソ連とは一応の(!)中立条約があり、ある程度平静な情勢。
まずは自給自足の態勢を固めることが最優先とされ、焼き畑を開墾してジャガイモを作った話とか、手榴弾を川に投げ込んで浮いてきた魚を捕らえた話とか、よく聞かせてくれた。
「戦局の悪化は知っていたが、士官として必勝の信念は堅持していたつもりである」とのこと。
ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄。8月8日、日本に対し宣戦を布告。脅威は現実のものとなる。
玉音放送。最初は何を言ってるかわからなかったらしい。
(電波状況も悪いので...)
終戦数日後、ソ連艦隊がウルップ島に接近。停戦を受け入れることとしていた日本軍守備隊は、軍使の派遣を決定。
局地的停戦協定を締結するため、幹部クラスがソ連艦艇に向かう。祖父は短艇で上官を送る任務に就く。
ところが、上官を送り届けて一息ついていると、ソ連兵から「あなたも来てください」と丁寧に言われ、はからずも協定調印の場に同席することに。
(少尉の徽章が向こうの目にとまったらしい)
(軍においては、敵味方問わず階級って結構大事)
通訳は、カムチャッカ方面で漁師をしていたという人物だが、日常会話を解する程度ではなかったのか?協定には曖昧な点が残った。
主な内容は、
・武装解除
・日本軍人は内地への帰還を許す。ただし一部の捕虜は免れない。
(この「一部」という表現が、人員のことなのか、期間のことなのかが曖昧で、後々尾を引くことになる)
結局、抑留され、強制労働に従事させられる。メインは建材や燃料のための伐採作業や土木工事など。
ある日、監督の兵卒に「今日はお偉方がくるから掃除しといてね~」とだけ言われ、今日は楽だと思って掃除して一服していたら、なんか偉そうなのがきて「サボタージュ!」とか喚かれた。抗弁しても聞き入れられず営倉(軍の牢屋)に入れられるハメに。きっと件の兵卒が、指示ミスしたのがバレるのを恐れて責任をなすりつけたのだろう。
共産主義国の建前で、捕虜にも十分な食料が与えられる「ことになっており」、1日何Kcalとか規則が定められていたが、「現物がないので」食事時間のたびに首をかしげられて終わり。
作業中、近くの川を見たらサケがウヨウヨと遡上しており、ソ連兵に教えてごっそり捕獲。久しぶりに満腹感を味わったとのこと。ソ連兵も腹は減ってたのでだいぶ喜ばれ、なんだかんだで一目置かれるようになったらしい。
S23ダモイ(帰国)後、ほどなくしてGHQからの呼び出しがある。「戦犯なんかの覚えはないが…」と訝しみながら出頭すると、米軍の将校から「千島及び樺太におけるソ連軍の兵力、展開状況を詳しく教えてくれ」と情報提供を求められたそうだ。帰国したばかりの数少ない士官、しかも工兵の心得があるからソ連軍の陣地を見ればさまざまな情報を得ていたことだろう。
NHK「映像の世紀」で、ソ連に連行、抑留されるドイツ兵の映像を食い入るように見ていたのが忘れられない。
でも、ドイツ兵に比べればまだマシだったんだと思う。WW2の時期、ノモンハンの停戦以降は終戦間際まで日ソには大きな紛争もなく「日本に対する憎悪」はそれほど猛烈ではなかったと思われるが、独ソ戦といえば世界最悪の戦場とも言われ、「ドイツに対する憎悪」は洒落にならなかったであろう。
(現に、抑留されたドイツ兵の8割はついに還らなかったと言われている)
(了)
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