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こんな通勤電車は終わりにしましょうね

こんばんは、瓶宮です。

ふつうの更新をぜんぜんしていませんでした。4月から晴れて社会人になったもので、急に生活のすべてが研修とかいう労働(のもと)に吸収されてしまった。もしかして、人生ってない?
バカバカしすぎるので、小説をポリポリ書いたり、映画やアニメをちょっと見てみたり、取り返そうと努力しています。私は!労働に!負けない!人生を、取り返すんや!👊わかったら労働時間減らせボケ!


通勤電車について苦い出来事がもう二つもできました。

天気がよい日は電車も人々も調子が悪くないので、雨の日に比べると遅延が起こることは多くありません。ということを信じて、晴れた日は各停に乗り、座って終点の駅まで向かいます。
眠ったり、本を読んだりして、とにかく嫌な気を祓うのです。労働の。こういうことでしか、積み重なり続ける微弱なストレスを払いのけられないのです。貧しいよ。なんて貧しいセルフケア。

ある日、普段のように各停に乗りました。席にも座ることができました。このまま終点まで眠って疲れを少しとろうと思いうとうとし始めたとき、後から松葉杖をついた方が乗車してきました。もうその頃には、席も埋まっていて何駅か、あるいは終点まで立ちっぱなしになるだろうなということが予想されます。

私はそのことを思うと、それで松葉杖なんかついていたら大変だな……とよぎりました。4月から慣れないことの連続で疲労がたまっているとはいえ、身体面だけでいえば健康であるという私と、身体を悪くして松葉杖をついているのに電車の揺れやこれから訪れる満員電車などに耐えなければならない人。負担が大きすぎる。それに、道徳では身体を悪くした人に席を譲ることは推奨されていたはずだし、私はその人の立場になって物事を考えてしまっていました。たぶん、座りたいだろうな……と思いました。日々疲れがたまっていく自分と身体を悪くした人とで共通点をみいだし、勝手に自己投影していたのでしょう。ここで自分が譲らなかったら、なんかダメな気がする。

結局、まごつきながらもその方に席を譲りました。その方は少なくとも表面上では、「ありがとうございます」と言ってくださいました。それはよかったなと思います。

けど、そのうち貧しいセルフケアはどうした?と考えてしまうようになりました。私は座りたくて早い電車に乗ってきました。そしてこの便を待ち、席に座りました。私が私のためにしてあげたことなのに、座れない各停じゃ意味ないよなあ……とか、思ったり……。その一方で、結局のところ行動としては私がやりたくてやったことになるだろうともなりました。いわゆる、自分の心の美学のためだろうと。それもそう。でも、なんかモヤつく……。
私のために私がした約束を破ってしまったことと、道徳的規範にのっとって行動したことと、本当にあの人は席を譲られてうれしかったのかということがぶつかり合っています。



また、別の日のことです。

急行電車はよく混みます。8〜9時には同じ土地にある各々の職場・学校に着いていなければならないので、人々は自然に同じ時間に家を出て、同じ電車に乗り、同じ目的地にたどりつく必要があります。これが、通勤・通学ラッシュというものですね。

多くの人々が同じ空間に集まってくるということは、さまざまな人がいるというわけです。立ちっぱなしでネトフリのドラマを観ている人、もうめちゃくちゃ眠いんだろうなと一瞬で分かる人、車内でパソコンを開いて持ち帰りの仕事をしているであろう人。本当にいろんな人がいる。

私にバカスカぶつかってくる人もいました。1度ぶつかって揺れで「身体がぶれたのかな?」と思い、2度ぶつかって「体幹があまり強くないのかな?」と思い、3度ぶつかって「ぶつかりすぎじゃないかな?」と思い、4度ぶつかって「おい!!!!!!」とイラつきが生まれました。さすがにぶつかりすぎだろ!!!!と思った瞬間に、5回目がきたのでイラつきボルテージが爆上がりです。混んだ車内でうまいこと避けようとしても6回目がきて、私は思わず舌打ちをしてしまいました。

それ以上のぶつかりは発生しませんでした。ということはやろうと思えばぶつかってこなかったのか?という疑念がふつふつと浮かびます。それと同時に、私はいま、DV夫とまったく同じ方法で人を動かしてしまったのではないか!?というショックもまたふつふつと浮かびました。

だって最悪でしょ、イラつきを外部に発露させてそれで「察して」文化にのっとって人を支配するの。私はそれをしない選択もできたのに、やってしまった。誰の中にも加害性というものは存在するとはいえ、それを発露させないようにおさえているのに、私はそれができなかったことが悔しいし、私は加害性を持っていてそれを外に向けて振り回す人間ですと名乗ってしまったようなものです。その日はへこみました。

もしかして、バカスカぶつかってきたやつも、そうした加害性を表に出すはじめての瞬間があったのだろうか?その行為を止められなかった、外部からの抑圧があったのだろうか?

人の気持ちを推し量るのもあまり良いことではありませんが、もしそうだとしたら、私たちは通勤電車によって尊厳陵辱されている者どうし争っている場合ではないのではないか?と考えが巡りました。私たちは好きでこうなっているんじゃないんだよね?たぶん。たぶん……。

こんなこともうやめましょうよ……。


この前も、流れる通勤人(つうきんちゅ)の観測できる品川駅で、外国人観光客がカメラを構えていました。ダークツーリズムというのでしょうか。怨念とか、映ってないかな。最初はかなりウゲッ!という気持ちがあったのですが、いまはもう逆に「どんどん撮っちゃって!拡散しちゃって!そして、こんな通勤電車はもう終わりにしましょうね」と撮影を望んでいる。

助けてくれーーーー!!!!

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