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病床と文学の親和性

   昨年、取材で私は静岡県富士山世界遺産センターに行ったことがあるのだが、その時特に印象に残った作品が、江戸時代後期の南画家である谷文晁の『富士山中真景全図』(1795)という作品であった。同作は三十四図からなる画巻で、富士川から裾野市を経て富士登山し、小田原までの道中の景色を描いており、これは時の11代将軍の徳川家斉に上覧され、賛辞も付けられている。
 
    カメラが日本に伝来する50年程前に描かれたこの作品は、富士山道中の壮大なパノラマを描いているという点で、現代で言うところのVR(Virtual Reality)の走りと言っても言い過ぎではないのかもしれない。人はこの作品を見るだけで、富士登山の気分を味わえるという訳なのだから。
 
    だが、最もシンプルな造りでVRを実現できるものがある。それは、詩―特に俳句である。日本人であれば松尾芭蕉の「古池や」だとか、正岡子規の「柿食えば」と聞くだけで、蛙が池に飛び込む音を、鐘が鳴る法隆寺を頭の中で描出することができる。この場合、詩がヘッドマウントディスプレイなら、目はさながらスクリーンである。
 
   回り道が長くなったが、こうした五七五で構成される最小の機構に魅入られたのは何も日本人だけではない。今回紹介するトーマス・トランストロンメルというスウェーデンの詩人もまた、2011年にノーベル文学賞を受賞している人物ではあるが、正岡子規などの俳句から影響を受けて詩作を行っている人物だ。例えば、唯一の邦訳書である『悲しみのゴンドラ』にも「俳句詩(Haikudikter)」がいくつか掲載されている。拙訳で恐縮だが、以下3つほど挙げてみよう。

『悲しみのゴンドラ 増補版』トーマス・トランストロンメル著
(エイコ・デューク訳,2011,思潮社)

 寒き国
 ピンと張り詰める高圧線
 全ての音楽の北涯の。
 
 満月や。
 過るタンカー。
 蘭の花。
 
 神ありき。
 鳥が囀るトンネルの
 閉じた扉が開かれる。
 
   トランストロンメルは「暗喩の巨匠(metaforernas mästare)」と呼ばれる詩人であり、意味深長なメタファーを用いることで、簡潔な言葉ながら極めて豊穣な世界観を描き出す人物である。そうしたトランストロンメルの作風は、今回紹介したのが「俳句詩」ということもありその片鱗しか味わうことができないが、およそ次のように読解することができるだろう。まず最初の詩はスウェーデンの街中に張る高圧線があらゆる音楽の中で最北の「五線譜」に見立てられており、簡潔でしかも美しい詩である。次の詩では語り手が満月を眺めていると、遠くにタンカー(ちなみにエイコ・デューク訳では「油槽船」と古風な言葉が当てられている)が横切っていったかと思えば、近くに置いてあったであろう蘭の花の存在が示されることで、遠近感や香りという二つの対比が描かれていたりする。そして最後の詩では、神の存在が唐突に現れたかと思えば、鳥たちが囀るような森の奥にあるトンネルが示され、そのトンネルを抜けた先にある扉が開かれるというモチーフが連続することによって、「明→暗→明」の移り行きと景色の奥行きが同時に描写されている。
 
   そして面白いのは、これらの俳句詩は、原文ではいずれも、「五・七・五」の母音で構成されている点だ。他にも同じ北欧圏で俳句に影響を受けた詩人だと例えばノルウェーのヤン・エーリック・ヴォルなどがいたりするが、彼の詩はもっと韻律から自由だ。
 
   もちろんトランストロンメルは俳句詩だけを書いていたわけで全くなく、彼が1990年秋に脳卒中に罹った後に、初めて彼の俳句詩が発表された。そうした意味では、トランストロンメルが影響を受けたという正岡子規の存在よろしく、病床と文学の強い親和性を改めて感じさせもするが、彼の詩が示す大胆な暗喩は、「言語にまだこんな表現が可能だったのか」と強く感じさせてくれるものだろう。 
 
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トーマス・トランストロンメルTomas Tranströmer、1931年 - 2015年)。

 スウェーデンの詩人・心理学者。10代より優れた詩才で注目を集め、デビュー作である『十七の詩篇』(1954)の出版以降、スウェーデンの代表的な詩人として第一線で活躍し続けた一方で、心理学者として少年院にも勤務していた。「隠喩の巨匠」と呼ばれており、その自然描写は19世紀のスウェーデンの作家ストリンドベリにも通じるものがあるとされている。また、ピアノ演奏も得意としていた。代表作としては『悲しみのゴンドラ』(1996)の他にも、『完成半ばの天』(1962、未邦訳)や『記憶が私を見る』(1993、未邦訳)などがある。1990年に脳卒中に陥り右半身の麻痺や言語障害を患うものの、詩作活動を続け、2011年にノーベル文学賞を受賞。


山下泰春:1992年生まれ。 編集者・翻訳者。 大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。 元々の専門は戦後ドイツ思想だが、 現在はイプセン以後のノルウェー文学を独自に研究している。主要論文に「戦争にとって言語とはなにか― ツェラン、エーヴェルラン、ザガエフスキー」(『アレ』Vol. 12,2022)、翻訳論文に「 ノルウェーにおける自由主義の歴史」(オイスタイン・ ソーレンセン,大谷崇・山下泰春共訳『人文×社会』第8号,2022)など。




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