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トーベ・ヤンソンの新たな挑戦 短編集『聴く女』

 トーベ・ヤンソンの短編アンソロジー2冊と自伝的な小説『彫刻家の娘』(1968)を概観しました。今回は、ヤンソンがムーミンの小説の完結後にはじめて発表した本格的な大人向けの本を紹介します。

 その本は『聴く女』というタイトルで、18の短編小説を収めた短編集です。1971年に出版されましたが、その前年の1970年は、ムーミンの小説として最後になる『ムーミン谷の十一月』が出版された年であり、また、ヤンソンの母シグネ・ハンマシュティエン=ヤンソン(通称「ハム」、※1)が亡くなった年でもあり、さまざまな変化の時期に書かれた本です。

 出版当時の評価は、好意的な意見も、そうでない意見もありました。『トーベ・ヤンソン:人生、芸術、言葉』には、哲学者や作家を引き合いに出したものやムーミンの物語と比較する見方があったことが紹介されています。なかでも、「トーベ・ヤンソンはあくまでもムーミンの本の作者」ととらえていた批評家が多かったそうです(※2)。
 評価の良し悪しはさておき、評価の多様さはさまざまな見方ができる本であることを意味します。

 本作がムーミンとは一線を画する作品群であることは、ヤンソン自身も自覚していたことでした。編集者への手紙には「新しいムーミン谷を待っている人たちをがっかりさせてしまうのが怖い」と書いています(※3)。『聴く女』から「ムーミン的なもの」を探そうとすると、読者の意識はムーミンにとどまり視野が狭くなってしまうでしょう。とはいえ、ムーミンと『聴く女』に類似するテーマが扱われていることも確かなことです。
 ムーミンの先に大人向けの小説があるととらえると、小説間の類似や相違への理解が深まるのではないかと私は考えています。このことを念頭に置いて、『聴く女』に描かれるテーマをいくつか見てみましょう。

 まずは、「芸術」です。『聴く女』を含めヤンソンの小説には、芸術家や芸術に関わる職業の人々が描かれることがあります。本作では、たとえば「黒と白」にインテリアデザイナーとイラストレーター、「愛の物語」に画家、「灰色の繻子(サテン)」に針子が登場します。
  ムーミンの小説では、『ムーミンパパ海へいく』(1965)にあるムーミンママの壁画制作の場面が芸術に関わります。この物語でムーミン一家は孤島の灯台に移住し、ムーミンママは灯台の壁にペンキで壁画を描きます。壁にペンキが染みる様子やママにとっては夕方に描くのがはかどることといった、制作に関わることが詳しく書かれています。また、壁画を描く範囲が広がっていくところにムーミン谷への恋しさが募る心情が表われています。芸術というテーマは、ムーミン以後の小説に引き継がれ、創作風景や登場人物の心情描写がさまざまに描かれます。
 『聴く女』における芸術の描写の一例として、連載第5回に「黒と白」を紹介しています。

 あるいは、「老い」と「死」もヤンソンが書くテーマの一つです。『ムーミン谷の十一月』には「スクルッタおじさん」という「とんでもなく年より」のおじいさんが登場します。スクルッタおじさんは大きな声で尋ねられたり、パーティーに誘ってもらえなかったり、年よりとして扱われることをよく思っていません。登場人物たちの間で考え方が違うことは以前の作品でもありましたが、それが老人と若者の間の問題として明確に現れたのは、スクルッタおじさんでした。
「老い」のテーマは、『聴く女』では「死」につながっていきます。短編「雨」は、ヤンソンの評伝で指摘されているように(※4)、ハムの死が影響している作品です。本作では、年老いた女性が救急車で病院に運ばれて死を迎えようとする様子が語られながら、死の虚無や生の疲弊、「美しい嵐」についても語られます。このような重層的な語りが、読み手の受け止め方を多様化させる一つの要因でしょう。
 短編「灰色の繻子」では、「雨」とは異なる表現のアプローチが見られます。針子として働くマンダには「間近に迫った死期を察知し、死に狙われている当事者を特定する」能力があります。マンダの内なる声は、死期が近いことを相手に告げるよう迫ってくるので、彼女はほとんど人と話さず、「自分の殻に閉じこもってひたすら」刺繍をしています。マンダの能力は非現実的ですが、誰も知らないはずの死期が彼女の知覚として語られることで、死が身近なものとして強調されてます。

 ヤンソンはムーミンから大人向けの小説にかけて、類似のモチーフやテーマを異なるアプローチで描き、表現を模索し続けています。ここでおもに「雨」と「灰色の繻子」を取り上げた『聴く女』は、彼女の挑戦が大人向けの小説という新たな段階に進んだ最初の本なのです。


<紹介した本>
トーベ・ヤンソン 著、冨原眞弓 訳『聴く女』、筑摩書房、1998。

<参考文献>
ボエル・ウェスティン 著、畑中麻紀・森下圭子 訳『トーべ・ヤンソン:人生、芸術、言葉』、フィルムアート社、2021。
トゥーラ・カルヤライネン 著、セルボ貴子・五十嵐淳 訳『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』河出書房、2014。
トーベ・ヤンソン 著、小野寺百合子 訳『ムーミンパパ海へいく』講談社、2020。
トーベ・ヤンソン 著、鈴木徹郎 訳『ムーミン谷の十一月』講談社、2020。

<注>
※1 ハンマシュティエン(Hammarsten)は「ハンマルステン」などと訳される場合もありますが、本稿では『トーべ・ヤンソン:人生、芸術、言葉』の表記に合わせました。※2 『トーべ・ヤンソン:人生、芸術、言葉』p.535-537※3 『トーべ・ヤンソン:人生、芸術、言葉』p.535※4 『トーべ・ヤンソン:人生、芸術、言葉』p.538、『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』p.297-298

著者紹介 / 小林亜佑美(こばやし あゆみ)
秋田県出身。高校生の時に初めてムーミンを読み、大学で文学・文化・表象論を学びヤンソン研究を始める。
2013年山形大学人文学部卒業、2016年法政大学大学院国際文化研究科修士課程修了。
修士論文タイトルは「理解・不理解の主題から読み解くヤンソン作品の変化:『ムーミン谷の仲間たち』を中心に」。
著作物;バルト=スカンディナビア研究会誌『北欧史研究』第37号に「日本におけるトーベ・ヤンソンおよびムーミン研究の動向」を掲載(2020年)。


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