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【神奈川のこと98】大阪より持ち帰りし鎌倉 =前編=(新横浜から阪神甲子園球場へ)

今夏、甲子園球場を訪れた。

よって、これを書く。

8月12日の早朝4:45。湘南モノレールはまだ眠っていて、大船駅まで家内に車で送ってもらう。横須賀線と横浜市営地下鉄を乗り継ぎ新横浜駅に到着すると、同駅始発の新幹線のぞみ号で一路、新大阪駅に向かった。想像以上に車内は空いていた。ガラン、ガラン。

あの殺人的壊滅的猛暑の中、わざわざ甲子園だなんて。我が母校、東海大相模は、慶應義塾(塾高)に県大会の準決勝で「戦前の予想通り」コールド負けを喫したというのに。では文字通り陸の王者となった塾高の応援に行くのか?

令和4年(2022年)から母校、東海大相模の同窓会役員を務めている。その任務の一つに、系列校の甲子園出場時には応援に駆け付けるというのがある。

今年は、熊本県代表の東海大熊本星翔(旧東海大二高)と山梨県代表の東海大甲府の2校が出場。そうなのだ、その甲府の応援に向かうところである。だからTOKAI UNIVERSITY SHONAN CAMPUSのTシャツを着ている。東海魂をポケットに忍ばせている。

横浜在住、東海大甲府野球部OBで東海大学法学部の先輩であるMr. Iと新幹線の車内で待ち合わせて、再会と喜びの握手。もちろん、Mr. Iは甲府野球部OBとしての観戦である。Mr. Iの背負っていたアークテリクスのバッグの中にも東海魂が入っている。先輩はあまり表情にそれを出さないが、知っている。

前職で、大阪に単身で赴任し、2013年春に東京へ戻ってきて以来、一度も関西の地を踏んでいない。実に10年ぶりの関西だ。

懐かしさの一歩手前で込み上げる苦い思い出もあったが、関西で過ごした2年間は、かけがえのないものとしてこの身に刻まれている。ああ、関西の街が好きだった。移住さえ家内と一緒に本気で考えたほどに。

だから、格別、特別の想いで向かった。懐かしさのあまり泣き出してしまわぬよう、冷静を聖霊に委ねた。

梅田駅から阪神電車の乗り込み、立って窓にへばりつく。しばらく地下を走るこの感じ、それを抜けて白い大阪の街、紺色の水をたたえた淀川がでっかい、六甲の山の上どこまでも暑そうな空、半開きの口で眺める。尼崎駅で両方のドアが開くと、「あっ」。その当たり前がおかしくて10年前が蘇る。武庫川駅を通過すると、「あっ」。訪問した営業先のことが蘇る。それは幻ではない。決して半端ではなく、ここにいたことが確かだと。そのことに他の乗客は誰一人として気付いてない。イエーイ。

甲府高校の同窓会役員の方々と一緒に声援を送ったが、肝心の試合の方は残念ながら専大松戸に敗れてしまった。ただ、我が母校の名が全国に知れ渡った1970年代、原辰徳の同期エースとして活躍した村中秀人監督の最後の勇姿を見ることができた。大学4年生の春に初めて甲子園球場を訪れたのが平成4年(1992年)選抜大会。当時、我が母校で指揮を執っていたのがこの村中秀人監督であった。平成4年から令和5年という30年間の東奔西走が、東海魂の内に巡り合わせてくれた。かち割り氷を頭に載せ、アルプススタンドからこの偉大なる先輩に拍手を送った。

この日の午後、懐かしい思い出の詰まった大阪の街で、鎌倉と出逢うことになるのだが、そんなことになろうとは露知らず、早く冷房の利いた阪神電車の車両に乗り込みたい一心で、灼熱の甲子園を後にしたのだった。

後編に続く。



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