【神奈川のこと76】クリエイティビティの爆発だ =前編=(鎌倉市/西鎌倉小学校)

創意工夫という言葉が嫌いである。
苦手と言った方がしっくりくるか。

よってこれを書く。

仕事などで「工夫がない」とか「工夫しろ」とか言われることがある。
ほんと嫌になる。
そう言われると余計にやる気がなくなる。
布団乾燥機をかけて、温かくなったベッドにもぐりこんでふて寝をしたくなる。
または、JR鶴見線に乗って海沿いの工業地帯を走り、ひとけの無い駅に降り立って、たそがれたくなる。
しまいにはワルサーP38を手に入れたくなる。

創意工夫力のある人を見ると、うらやましさと同時にひがみ根性が出てきて、素直に受け止められない。「すごいね」なんて言いながら、心の中では、正反対のこと考えていたりする。

鎌倉市立手広中学校3年生の時、当時の技術家庭のイソベ先生(通称べっち)の企画で、「創意工夫展」が開催された。
本当に困った。まったくもってのノーアイディア。
アイディアの源泉は乾ききり、砂漠と化していた。

仕方がないので、紙とビニール袋で、「足を怪我した時でも入浴できる奴」というのを作った。画用紙とビニール袋、ホチキスと輪ゴムでできた創意工夫ゼロの代物であった。

クラスでの発表会の日、早熟のやっこが、棒の先にパンティストッキングをつけて、「お風呂に浮いた髪の毛を取る奴」というのを照れ笑いしながら発表した。「俺もああして笑いながら発表できたらいいのにな」とうらやましく感じながら、やっこの入浴シーンを思い浮かべてモゾモゾした。

いよいよ、発表の順番が回ってきた。べっちからは、「すぐ壊れそうだな」と苦笑しながら評された。1階にあった技家庭室がひんやりと無情の空間と化した。あれ以来、大人になって母校を訪問しても、何となく技家庭室は避けた。あのひんやりとした無情の空間を思い出すからだ。

中学校2年の時には、美術の宿題で、「グラデーションで絵を描こう」というのがあった。いかにも美術の先生という風体の下山先生。どこからどう見ても体育の先生には見えない優しい男性の教師であった。こちらもまた、何のアイディアも浮かばず、提出前日の夜中に泣きながら母親を起こして相談した。母は、1時間足らずでグラデーションの絵を描き上げてくれた。私は筆を洗うプラスチックのバケツの水を交換する役割を担った。翌日、何事もなかったようにその作品を提出した。

それが後に生徒会長となり、全校生徒の前で偉そうに演説をぶったり、粋がって先生達に意見したりするんだから、まったくもって噴飯ものよ。

高校二年生の秋。陸上競技部の部長に選ばれて調子に乗っていたら、むくむくとクリエイティビティの泉に水が溜まってきた。
それで、チームのヤッケをデザインから全部独りでやって、町田のB&Dという御用達のスポーツショップに発注した。
不評であった。
発想自体は決して悪くなかったんだけどね。
グレー地に白抜きの文字で、背中に「東海大相模 T&F」とやり、左胸には学園の旗を模したマークをあしらった。T&Fとは、TRACK & FIELDのことだ。
デザインもさることながら、汗をかくとすぐに内側に水滴がつくし、ジョギングをしただけ、脚の方にしわが寄ってくるしと機能的にも今一つであった。
我ながら使いづらいと思っていたが、やはり評判は良くなかったようだ。
ただ、部長への気遣いからか、面と向かってそれを言う部員はいなかった。

そんなこんなで、とにかく創意工夫とは無縁の人生を送ってきた。

そんな私にも、クリエイティビティに満ち溢れている時期があった。

昭和55年(1980年)、西鎌倉小学校4年1組の時。

漫画家、編曲家、演出家、舞台監督、新聞発行者、プロ野球選手、バスの運行時刻表作成者、ゲームクリエイター、最強のめんこ職人、鮮やかな色彩のチェ―リング職人、戦争歴史家、探検家、音楽評論家、キャラクター収集家、政治家、神父、漫才師、ミュージシャン、思想家。

あのまま行ったら、将来はこんな職業に就いていたかもしれない。どれもクリエイティビティに満ち溢れた魅力的なプロフェッショナルである。

アイディアはまるで忍野八海のごとく次から次へ源泉から湧き出し、それは留まることを知らなかった。

後編に続く。


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