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【神奈川のこと95】つわものどもが夢の跡(横浜市神奈川区/三ッ沢公園)

5月中旬、三ッ沢公園陸上競技場にて神奈川県高等学校総合体育大会、つまり県高校総体、いわゆる一つのインターハイ予選会最終日が行なわれた。
我が母校、東海大相模高校の陸上競技部OBOG会を12年前から主宰しており、コロナ禍も去って、4年ぶりの観戦に訪れた。

よって、これを書く。

気持ち良く晴れた日曜の朝、しっかり朝食をいただき、食後のコーヒーと共にラジオでクラシック音楽を流しつつ、ちょちょいといくつかの用事を済ませると、動きやすい格好に着替えて、「行ってきます」と軽やかに妻に告げて家を出た。

ああ、今日はもう何もしなくていい。ただ、風に身を任せよう。

大船駅から横須賀線に乗り込み、神奈川新聞に目を通す。スポーツ欄には、前日の高校陸上の結果が載っていて、母校の選手が女子200Mで大会新記録を出したという記事が写真入りで出ていた。そして見開き紙面の反対側には、読売ジャイアンツの「大城」が、中日ドラゴンズの「小笠原」から満塁弾を放ち、阪神タイガースのルーキー「森下」がサヨナラ安打で試合を決めた記事が、これまた写真入りで掲載されていた。ああ、神奈川新聞万歳。この喜びを誰かと分かち合いたい衝動にかられる。

横浜駅で下車、西口から徒歩で競技場に向かった。浅間神社でお参りし、亡き母の生まれ育った宮ヶ谷の町を通って、長い坂をのぼると三ッ沢公園に到着。観客席にほど良い場所を見つけて座っていたら、一つ上の陸上部のK先輩に会うことができた。あいさつ代わりに、神奈川新聞のスポーツ欄を見せると、「おっ、みんな(東海大)相模じゃん!」と素早い反応。いいですね~、この先輩と後輩のやりとり、実に息が合っています。ちなみにK先輩の娘は、現在、現役で我が母校の選手としてがんばっているので、こちらとしても応援に力が入る。

朝の10:30に着いて、競技終了は16:00ごろ。これが陸上競技大会。ひっきりなしにトラックレースが行われるわけではなく、間隔を空けながら、ゆっくりと進行してゆく。やり投げや円盤投げ、三段跳びと言ったフィールド競技も長い時間をかけて行われる。ふと見上げれは、カラスがカーカーと鳴きながら空を舞う。港の方面から風が渡る。それは、はじめ人間ギャートルズの主題歌の如く空に足跡がくっきりと見えるかのようだ。

つまり大概は「ひま」なのである。こういう場合は急いてはいけない。K先輩が買ってきてくれたちょっと甘口の缶コーヒー、それをちびちびやりながら、うららかなるこの日曜の午後を満喫すればいい。自分にはちょっと甘口ではあったが、先輩からの愛情と労いの証しを丁寧に味わってみる。

正面には目の高さに横浜市民病院がどっかりと建っている。昭和56年(1981年)、小学校5年生の時にここで鼻の手術を受けた。手始めに、あの時のことをありありと思い出してみた。手術器具が鼻に押し込まれる圧力、鼻腔を通るぬるいお湯の感触、母と病院内のレストランで食べたスパゲッティミートソースのことなどを。

それから、普段は流し読みの神奈川新聞の記事、これをゆっくり読み込む。時に愛読中の単行本「ゴッドファーザー」に切り替えれば、三ッ沢の丘は突如として1940年代のニューヨークの喧騒に包まれる。

それにしても、母校の選手たちの活躍は素晴らしかった。出場している選手、応援している選手、みんなまぶしい。マイナーチェンジをしているものの、黒字に緑というユニフォームの色合いはずっと変わっていない。

最終種目、男女4×400Mリレー決勝では、女子が2位、男子4位とそれぞれ入賞。6月の関東大会で入賞できれば、いよいよ8月には札幌での全国大会(インターハイ)である。

現役の頃、長い一日をかけて全競技が終わると、誰もいなくなったグラウンドに何とも言えないわびしさと安らぎを覚えた。緊張と静寂、号砲と共に鳴り響く声援、そして多くの悔しさと一握りの選手だけが手にできる栄冠の喜びを演出した場所。そんなことはすべて夢だったのではないかと思えるほど、グラウンドはその表情を変えて黙り込んでいたものだ。

この日、全ての競技を終えた午後4時15分のグラウンドから、あの時と全く同じわびしさと安らぎを感じた。昭和、平成、令和と時は過ぎたのに、それは何も変わっていなかった。

競技場を出ると、誰もいないサブグラウンドが目に入った。一度通り過ぎたが、呼び寄せられるように戻り、しばし眺める。次々と脳裏に浮かぶ、当時の仲間の顔。

今年の秋、4年ぶりのOBOG総会を開く。









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