緊縮財政に苦しむミュージアム業界
ミュージアムの財政難
昨年2023年は博物館の財政難がますます悪化していると印象付けられた年だった。まず、この年の1月に東京国立博物館館長の藤原誠が『文藝春秋』に「このままでは国宝を守れない」というセンセーショナルな見出しで寄稿したことが話題となった。藤原は、現在、博物館は光熱費高騰によって深刻な財政的危機に陥っているという認識を示し、補正予算を承認しようとしない財務省を批判するに至ったのだ。
むろん博物館が置かれている財政危機は、ウクライナ戦争を契機とした光熱費高騰を契機に突然ひっ迫したという単純なものではない。それ以前から、博物館に対する予算は年々減らされ続けており(図1)、突発的な物価高騰のあおりを食らっていよいよ耐えられなくなってきたというわけだ。
こうした運営費の逼迫を打開するために博物館独自の取り組みが注目されたのも同じ年の11月。東博と同じく上野にある国立科学博物館がクラウドファンディングによって9億円の寄付を集めたことが全国ニュースとなった。国立博物館がこのような取り組みに及んだのは、国からの予算がつかないのであれば民間からの資金援助に頼るほかないという現状認識の表れといえる。だが、このような支援者の善意に頼った事業の継続は、科博のように有名館だからこそ可能であり、持続性があるとはいえないばかりか、ますます選択と集中の傾向が強まる。あるいは、国が予算を減らしてゆく口実になりかねないという懸念の声も大きい。
ミュージアムがなくなる?
博物館や美術館の財政難は、その施設が抱えている収蔵品を維持し後世へと伝えることが困難になってきていることを意味している。そこでもっとも懸念されるのは、収蔵品の散逸と最悪の場合には博物館の廃止という事態である。
コレクションの散逸の懸念が沸き起こったのは、実現こそしなかったものの2018年に政府案として提起された「リーディングミュージアム構想」が契機だった。これはありていに言えば、美術館が現代アートを収集し、その評価を醸成したのちに売却することで儲けたり、マーケットを活性化したりしようという企てであり、当然、業界人たちからは、そもそも美術館がコレクションを投機目的で売買するなどありえないと不評を買うだけに終わった。
このことをきっかけに、大々的なプロモーションを仕掛けて大動員をはかるブロックバスター展など美術館がコスパ重視の活動を展開することの是非が議論になったが、外部資金を調達しなければならないという圧力に対する有効な対策は、いくら理念を掲げたところで先立つものがなければどうにもならないという閉塞感の漂うものであった。
予算がなければ収蔵品の保管場所を増やすこともままならず、そもそもコレクションを整理し管理する学芸員の人員が十分でなく、収蔵庫が飽和状態になっているという悲鳴も聞こえてくる。このままではコレクションを整理して重要性の低いモノから減らしてゆくという措置が講じられかねない状況になっており、実際すでにそうした払下げのようなことが行われているところもあると聞く。
後者の博物館の廃止への懸念は、まだそれほど大々的には議論は巻き起こっていないようだが(予算がないと言われたらもはや議論のしようもないと諦められているのかもしれないが)、2021年から始まったコロナパンデミックを契機として、同志社大学教授の太下義之が今後ますます博物館がトリアージ(予算を投じるだけの価値があるのかを峻別すること)の対象になってゆくだろうという見解を示した。
90年代に急増した日本のミュージアムは建設から30年が経過して、現在、建替や改築等の更新時期を一斉に迎えるタイミングにあたっている。その際、総務省が公表する地方行政の厳しい財政状況や、文科省が大学の施設維持に関して示した「真に必要性の高いものから重点的に施設整備や維持管理を行うことが必要」とする見解を援用しながら、大学と同じようなトリアージの施策がミュージアムにも適応される可能性が高いと太下は指摘する。
ところで、太下によれば90年代にミュージアムの数が急増したのは、次のような理由だという。
90年代と言えば、バブル経済が崩壊し、現在まで続く不況の始まりにあたっているが、そのさなかにあってもまだアメリカからの外圧が理由とはいえ、公共事業を拡充してミュージアムを建てまくる余裕があったのだ。現在、博物館や美術館があえいでいる財政難の一番の解決策は、日本経済が好景気となればどうとでもなることなのである。
外部資金の獲得競争
こんなこと言うと、そんなことはわかっているし、それができたら苦労はしないと言われてしまいそうだ。では、今後どうなってゆくのか。やはりミュージアム自身が外部から資金を調達する努力が一層求められ、予算を出せないと開き直っている行政がそれを後押しするという構図がますます強化されてゆくのだろう。
現に今年3月には、文化庁がクラウドファンディングの運営会社との提携を発表した。その第一弾の企画が、今年元旦に発生した能登半島地震で被災した文化財のレスキューだ。行政が予算獲得を外部資金に頼ろうという意図を鮮明化したもので、あきらかに科博のクラファンはミュージアムの資金獲得競争への道筋に先鞭をつけたと言えるだろう。
クラファンの推進と連動する形で、文化庁はさらに博物館へ専門人材を派遣する事業を始めようとしている。遅れているデジタルアーカイブ事業への専門人材の派遣や、施設の魅力を伝えるクリエイターの派遣のほかに、クラウドファンディングを企画する専門家の派遣も含まれており、ただでさえ数が少ない学芸員だけでは資金獲得のための事業にまで手が回らないところを補助する意図がうかがえる。
もはや学芸員の補充はままならないのだからせめて補助的に人材を派遣するという流れが出来上がってきているかに見えるが、はたしてそこで踏みとどまれるのかという疑問もある。1986年に制定された労働者派遣法によって最初はごく限られた専門人材のみの派遣に限りられていたのが(同法が施行される以前は、人材派遣は違法だった)、あっという間に業種の制限が取り払われて原則自由化し、非正規雇用の拡大を招いて現在に至ることをここでは思い出すべきかもしれない。ただでさえ会計年度任用職員の学芸員の立場が不安定であることが指摘されているのに、それがますます加速し、常態化してゆくことも懸念される。
以上のように、今後ますます財政難をめぐってミュージアムは対応を迫られることが予想される。それにしても財政難の根本的な解決方法は日本経済の回復以外になく、ミュージアム自身がどれだけ主体的に外部資金の獲得に奔走したところで焼け石に水であることに変わりはない。しかし、それではあまりにも身も蓋もないので誰もそのことに踏み込もうとしない。だからこそ私はこれからあえて経済へと踏み込んで行こうと思う。問題は日本経済の回復がどうすれば可能なのかであり、日本は何を間違えてきたのかが問われなければならない。ここをまずはっきりさせない限り、出口は見えてこないからだ。
不況に苦しんできた日本
経済学者のケインズの有名な言葉に次のようなものがある。
ケインズの言うように、経済についての観念は、その人の世界観を大きく左右している。誤った経済観念は、ときとしてこの世を地獄のような世界だと認識させるし、その中で最善の策だと考えて実行している政策が、まさにその人が夢想したとおりの地獄に世界を変えてしまうことだってあるのだ。
特に人文学を専攻する人々の多くは、文化の作用、たとえばイデオロギーといった権力的な作用が人々の意識をある方向性へと誘導しているというようなイメージを強く持っているかもしれない。だが、もっと直接的に一人の人間の実存を規定しているのは、その人が一生を通じて巻き込まれ続けることになる経済という現実と、それを理解する経済観念である。
現在、日本は30年にも及ぶ不況にあえいでおり、このままでは日本経済はさらに悪くなると誰もが思っている。最近、経産省がこのまま行けば日本は新興国に追いつかれると公に認めたほどだ。
いまも続く不況は、その間に膨大な失業をもたらし、人々を貧困に陥れ、最悪の場合には自殺へと人々を追い込んできた。そしてなによりも出生率の低下によって、本来は経済が好調であれば生まれてきたはずの命が抹殺されてきた。だが、そうであったとしても人々が経済の問題を正面から問うことは少ない。誰もが経済に対する造詣をもつわけではないし、経済の専門家たちの言っていることが妥当なのだろう、そこに異論をさしはさむ余地などないはずだと思っているからだ。経済学者が言っていることは正しく、その提言に沿って国の財政は崩壊からかろうじて踏みとどまってきたのだと信じている。
ところが、近年、主流派の経済学者たちの見解は根本的な部分で間違っており、それが不況の原因である財政政策を導いてきたという指摘がなされ始めている。それによれば、30年という長期不況の原因は、日本が長らく実践してきた緊縮財政という政策の根本的な誤りにあるという。
緊縮財政の辞書的な意味を引いておくと、「 国、地方公共団体で、支出の削減、公債の整理などにより予算規模を縮小させた財政。行政整理、公共事業の繰延べ・打切り、給与ベースのくぎづけ、引下げなどが行なわれる」とある。博物館行政の財政難の原因も、政府が推し進める緊縮財政によって生じていることは、先ほどみてきたとおりである。具体的には、政府予算を編成するのは内閣であるが、冒頭に挙げた東博の館長による批判のように、各省庁があげてきた予算案を財務省が審査して、これを可能な限り突っぱねることで予算の最小化が図られている。財務省がどうせ突っぱねてくるので、各省庁もそれにあわせて「現実的な予算案」を提出するわけだ。
財政破綻は起こるのか?
そもそもなぜ緊縮財政に日本は邁進してきたのか。その根拠となっているのが財政破綻論である。「このままでは日本が財政破綻する」という理屈にはいろんなパターンがあるが有名どころをひとつ紹介しよう。
ニュースで「国の借金が数百兆円で、国民一人当たりに換算すると数百万円にのぼる」というフレーズを耳にしたことが誰しもあるのではないか。現在ではこの「国の借金」とやらは1000兆円を超え、国民一人当たりに換算すると800万円ほどになっている。これを返済しなければならないというのはなんとも非現実的に聞こえるが、人々の意識に漠然とした不安を植え付けるには十分な効果を発揮してきた(そしてこの不安を煽ってきたのは財務省である(図2))。この「国の借金」を理由に度重なる増税が断行され、国民は一度決まったことは仕方ないとその苦境に堪えてきた。
この「国の借金」というのは政府が財政支出する際に発行する国債の残高を指している。昨年も政府予算のうち、35兆円ほどの新規国債が発行された。この国債を引き受けているのが日銀や国内の民間銀行なのだが、このまま「国の借金」が増えていけば、銀行が国債を引き受けるための原資である民間資産がいつか尽きてしまうというのが、財政破綻論の根拠の一つとなっている。
この財政破綻論が前提としているのは、円という通貨の発行主体は国ではなく、世に出回る円の総量は容易には増えないという認識である。では、どのように円が増えると思っているのか。細かい説明をしているときりがないので結論だけ言えば、主流派経済学の理解では、世の中の貨幣量は、企業や個人が銀行から借り入れをした際の信用創造によって増えるとされている。
貨幣とは何か?どのように生まれるのか?
つまり、主流派は、国家自らが貨幣を発行するのではなく、民間の借入需要が増えることによってのみ貨幣量は増加すると考えている。この理解は間違っており、実際には政府と日銀が一体となって行うオペレーションによって貨幣は創造されていると反論しているのが現代貨幣理論(MMT、モダン・マネタリー・セオリー)である。
MMTによれば国家が自ら必要なだけの通貨を発行できるため、円が足りなくなって財政破綻するなどという事態は起こりえない。そればかりか、「国債は国の借金である」とか、「我々国民が支払っている税金は政府の財源である」という、私たちがこれまで信じてきた常識さえも覆えるという。国債は国の借金ではなく、税は財源ではないというのだ。
では、実際には、貨幣はどのように創造されているのか。そして、国債や税が借金や財源ではないとすれば、いったいどんな役割を果たすものなのだろうか。
貨幣の創造は先ほども言ったように、政府と日銀が一体となって行っている。政府が民間への財政支出のために国債を発行する時、それに先んじて日銀が同額の貨幣を創造する。その新しく創造された貨幣が日銀から民間銀行を介して公務員の給料の支払いや事業を請け負ったり商品を卸した民間企業への支払いとして供給される。その代わりに日銀もしくは民間銀行が国債を資産として保有するという形を取って、結果的に世の中に流通する貨幣量は増大する。
つまりこのとき国債は、創造された貨幣を取引するための手段となっているにすぎない(そのほかに金利の調整という機能もある)。たしかに国債は政府の負債として計上され、定められた期間が過ぎると利子付きで返済されるので、普通の借金と同じように見える。しかし、その返済も結局、政府と日銀が発行した貨幣によって行われるのだから、これを我々一般の家計にとっての借金のように、有限な預金を取り崩すようなものと捉えるのは誤りである。
「国の借金」によって民間資産を圧迫などしていないどころか、国債を発行した分だけ民間資産のプラスとなるのである。MMTの核心は、以上のように、一方に国債という名目上の負債と、それに対応する資産としての貨幣の量は常に釣り合うという貨幣観を提示したことにある。これが「政府の赤字は民間の黒字」というMMTのエッセンスの要約としてよく使われるフレーズの意味である。
では、私たちが収めている税金はどうだろうか。たしかに税収は政府預金として計上され、それが毎年、政府の年度予算に振り替えられているのは事実である。しかし、それを以て、税金は政府予算の「財源」だと考えるのは、国債を「国の借金」と見なすのと同じように短絡的だ。あらかじめ貨幣が創造されていなければ、税として徴収する貨幣は発生しないことは先ほど述べた通りである。
MMTは、自国通貨の需要を創出するために税は存在すると説明している(租税貨幣論)。それは強制的に円に対する需要を作らないと外貨による取引が横行する危険があり、そうすると自国通貨の信用が落ちてしまうからだという。それ以外にも、貨幣の起源は神への供物だったという歴史学の知見もMMTは援用してもいる。国民が国へ税を納めるのは、国へ貸しを作り、国がその債務を履行するために行政サービスを国民のために行うという、国家と国民の贈与の関係性を作り出すためだということになる。
人が「税は財源」だと言うとき、それはただ事実の指摘以上の意味を持っている。そこには大人として当然果たすべき義務であり責任といったニュアンスがある。「税は財源」という前提が成り立たないとき、それでもこの「大人として当然果たすべき義務」というニュアンスは社会的に必要とされ、その代替案をMMTは考え直そうとしている。この税の役割に対するMMTの代替案は、私にはあまり納得がいかない部分だが、まぁいまは深くは立ち入らないことにしよう。
ともかく税があろうがなかろうが、政府予算のための原資が確保できなくなるという事態はあり得ない。国債発行に伴って創造された貨幣が民間へ支出されることによって世の中の貨幣量は増大する。そこに原資は必要ない。
むしろ、政府と財務省がこれまで行ってきたように、増税によって税収を増やし、国債発行を減らしてゆくことで財政黒字化を目指すことは、世の中の貨幣量を減らすことを意味する(現在でも2025年には黒字化の実現を目指している)。国債という名目上の負債と、資産としての貨幣の量は常に釣り合うというMMTの貨幣観からすれば、逆に政府が国民から税金として貨幣を回収し、それを国債の償還に充てるとその分の貨幣は消滅することになるからだ。
MMTの核心は、以上のように貨幣は債務と債権の関係によって増えたり減ったりするという理解にあり、これまで財政政策の根拠となってきた主流派の理解を根本から否定している点にある。
なお、主流派が言うように、たしかに企業や個人が民間銀行から融資を受けた際にも、一時的に貨幣量は増大する。つまり、貨幣の量が増えるのは、政府と日銀が貨幣を創造して民間に支出するときと、民間銀行が民間へ融資を行うときの2パターンがあるということだ。だが後者の場合は、いつかはローンは返済されなければいけないので、貨幣量が元に戻りプラマイゼロになる(結果的には、銀行の収益となる金利分の貨幣が銀行口座を移動するだけである)。後者では、今の日本のようにデフレ経済で借入需要が低い水準の留まっているときには、なおさら貨幣量は増えにくい。貨幣の量を安定して増やせるのはつねに赤字を抱え続けることができる政府のみである。
であるから、政府はむしろ安定して貨幣を供給するために、常に赤字を抱え続ける必要がある。必要なだけ通貨を発行できるのだから債務不履行になることはないし、国家が消滅することはほぼないので、円の信用が暴落して限りなく無価値になることはほとんどありえない。
ちなみに巷では、アベノミクスによる異次元の金融緩和によって日銀が民間銀行がもつ国債を過剰に買い上げ、準備預金(預金引き出しに備えるためのお金)が過剰に供給されたせいで、世の中の貨幣量が増えたなどと考える人もいるがそれは間違いである。誰も預金や受けた融資以上の引き出しは行えないからだ。
不況の原因は、財政支出が足りないこと
さて、貨幣の量が増えた減ったの話を長々としてきたが、それがいったい何だと言うのだろうと思われているかもしれない。それは、この貨幣量の増大こそが経済成長の最も重要な要因であるから、ここが最大の焦点となっているのだ。
MMTの貨幣観によれば、創造した通貨で財政支出をすることがもっとも安定して世の中の通貨量を増やす手段である。財政支出によって世の中に通貨が多く出回るようになるということは、人々の収入が増え、支出が伸びる。つまりGDPが伸び、経済成長するということだ。もっとありていに言えば、私たちの財布の中身が増えるには、貨幣量を増加させるしかない。こんな単純明快なことさえ、主流派はいろいろな屁理屈をこねて否定してきたのだ。その結果が「失われた30年」である。
事実として図3のように、財政支出と名目GDPの増減を示す曲線はほぼ一致している。つまり、財政支出を絞ったせいで名目GDPが伸びず、逆に財政支出を拡大させれば名目GDPが伸びるということだ。そんな簡単な話があるのだろうか?と思われるかもしれないが、もう一つ、各国の経済成長率と財政支出伸び率を比較した図4を同時に見れば、ここ20年間で最も財政支出を絞った日本が最下位で、一番財政支出を伸ばした中国が一番成長していることは一目瞭然となっている。
政府は原資がなくとも必要なだけ貨幣を民間へ供給できる。これが貨幣創造の実態である。そして、政府と日銀が貨幣を増やし、民間に支出しなければ、民間の円資産は増えず、したがって企業の売り上げや我々の給料が増えることもない(最近は政府が無理やり企業に給与を上げさせようとしているが、無理を続ける体力のない企業はついて行けていない)。
世間一般の理解では、「税は財源」であるから、富裕層や企業からなるべく多くの税を徴収し、それを「国の借金」の返済に充て、残った予算を適切に再分配することで、より良い財政運営がなされるはずだと考えられている。その再分配が偏っていると、例えば年金暮らしの高齢者の介護や医療などは若者世代に負担を強いているといったバッシングが起きる。老人は集団切腹しろなどと真面目に言い出す大馬鹿も出てきたし、2016年には生産性のない障害者には生きる価値がないなどと主張する人間による大量殺人も起きた。
しかし、「税は財源である」という認知によって増税して税収を増加させ、「国の借金」を減らしていくことで「健全な財政」を行うことは、国民の財布の中身を減らし、有効需要の低下を招き、深刻なデフレから抜け出せなくなっている日本経済の最大の元凶である。
貨幣の減少とはすなわち我々の収入の減少であり、家計が支出を絞ると需要が落ち込み、企業も思うように売り上げを出せなくなる。すると、企業も支出を絞り、家計収入も減る。これを繰り返すのがデフレスパイラルである。最近では日本も世界的な物価高でインフレに振れているが、これをコストプッシュインフレと呼び、国内の需要が増えることで起こる正常なデマンドプルインフレ(需要牽引型インフレ)とは区別される。
もう日本は30年間もデフレ基調が続いているので人々の感覚は麻痺しているが、順調に成長している経済は少しづつインフレするのが正常である。ところで、政府赤字は増やし続けても問題ないと主張するMMTに対しては、そんなことをしたらいつかハイパーインフレが起こるなどという批判が良くなされる。しかし、主流派経済学は、日本がこれまでまがりなりにも財政赤字を拡大させてきたがインフレどころかデフレが続き、負の連鎖から抜け出せなくなっていることを説明できていない。なぜなら政府赤字によって財政支出が増えているとしても、民間の貯蓄需要が高ければ結局支出は伸びず、インフレには振れないからだ。日本がデフレを脱却し、需要牽引型インフレの軌道に乗るには、貯蓄需要をさらに上回る貨幣の供給が必要なのである(その方法には、雇用保障プログラム(JGP)や、無条件の所得保障としてユニバーサルベーシックインカム(UBI)などの案が出されている。ちなみに私はUBI派)。
政府が必要な時に必要な財政支出を決断できなければ、人々の生活が破壊されてしまう。たとえば、今年の元旦に起きた能登半島地震は、能登に甚大な被害をもたらしたが、政府が十分な支出を行わないために復興は遅れに遅れている。それどころか能登の復興に充てるだけの財源が国にはないのだから被災者には移住を推奨すべきだなどという、議論と呼ぶのもおこがましいような主張がSNS上で大真面目に繰り広げられている始末だ。
本来であれば政府の予算は国債発行で賄えば良いにもかかわらず、国債発行に頼らずに全てを税収に頼ろうとしている現在の財政政策によって、国民の生活が困難になるほどの貨幣量しか出回らない状況を生んできた。「税は財源」「国の借金」「健全な財政」という認知は、すみやかに改める必要がある。貨幣発行が先、それを民間に支出して、ある程度回収する徴税は後。どんな理屈を捏ねようが、この順序は揺らがない。高齢者や障害者へのヘイトや、被災地復興に対する忌避は、この順序を転倒させた誤った経済観念に基づいており、その主張の正当性はどこにもないのである。
「国の借金」という認知をもとに、政府は誤った財政政策を30年間実施し続けて、人々の生活を破壊してきた。その直近の例が能登であるといえる。経済観念はその人の世界観を支配しているというケインズの言葉を思い出そう。
参考文献
MMTについての書籍はあらかた目を通したが、最も役に立ったのは以下の二冊だったのでそれだけまず挙げておく
MMTの創始者たちの本は以下の二冊。
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