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作品画像に文字をかぶせるのやめてください【美術館の中の人へ】

最近、美術館が広報用の作品画像として、画像の上に文字をかぶせはじめたので、そういうのやめてほしいという話です。

まず、直近の事例として挙げられるのが、現在、大阪中之島美術館で開催中の「生誕270年 長沢芦雪」展です。ポスターにもなっている長沢芦雪《牛図》(鐵齋堂所蔵)を見てみましょう。

長沢芦雪《牛図》寛政年間(1789-1799)鐵齋堂
左下の文字部分を拡大

画像の左下に小さくではありますが、作品情報が記載されているのがわかりますね。こうした画像は、ここ1年くらいの間に増えてきた印象があります。私が最初にみたのは、たしか東京国立近代美術館の「重要文化財の秘密」展だったと思います。

重文展の画像はすでに有名で複製が出まわっている作品ばかりだったからあまり問題視しなかったんですけど、その手法が一般化して、芦雪展みたいに今回ネットで公開されるのが初めての作品画像に文字入れられてしまうと、今現在ネット上に存在するこの作品の画像はこの文字が入った変な画像だけということになってしまいます。それは問題なんで今回は記事にしたという経緯です。

作品の複製画像の上に文字をかぶせることの一番大きな問題は、それが作品の改変にあたるという点です。当たり前と言えば当たり前なんですが、たとえ複製画像であったとしても、その上に何かを付け加えれば改変にあたります。

作品の改変は、著作者人格権のうち、同一性保持権、名誉声望保持権にかかわって、著作権法には作者の死後も「著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない(60条)」という規定があります。作者の意図しない作品の改変を禁止しており、相当に極悪な改変や利用方法ではない限りは罪に問われることはないでしょうが、改変を安易に行うことには慎重でなければならないはずです。

というか、まず常識的に考えてみてほしいのですが、たとえば存命のアーティストの作品画像のうえにキャプションに書くような文字をかぶせようと思います?  作者からすれば、ふつうそんなことしてほしくないと感じるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。もちろん現代の私たちの感覚と、今回引き合いにだした長沢芦雪のような江戸時代の絵師の感覚じゃ、単純な比較にはならないでしょうけど、作品を扱う以上、現代の規範に則ってやるべきですよね。

どうしてもというなら、ふつう、画像に余白を設けてそこに書きませんかね。作品に対する敬意があればそうするはずだと思います。たとえばこちらの記事に用いている画像みたいにするのが常識というものではないでしょうか(こんな話の流れで引き合いに出して、作家さんには申し訳ないですが)。

もちろん作品の改変だから直ちにダメだというわけではありません。たとえばマルセル・デュシャンがレオナルドの《モナ・リザ》の複製に髭を加えた作品がありますが、あれも作品の改変にあたります。

ただこちらは作家が表現としてやってることであるのに対して、キャプション文字をかぶせた画像は、ただキャプションに書くような情報を画像の中に入れ込みたいというだけの理由でやっているわけですから、そういうのやめたほうがいいですよ、どうしてもというなら余白を設けてそこに書くのが作品に対する敬意というものじゃないですか、という話です。

で、Twitterのほうで、そういう話をしたんです。

このツイートを見てくれたから、というわけではたぶんないのかもしれないですが、大阪中之島美術館のTwitterアカウントでは、文字をかぶせていない画像が用いられていました。これはよくないかもと途中で気づいてくれたようなら何よりです。

で、どうして文字を被せるようなことをしてしまったのかと考えると、おそらく作者や作品に対する敬意を欠いていたからというわけではなくて、複製画像という形式を手軽なものと捉えているんだと思うんですよね。ベンヤミンなんかがそんなこと言ってたような気がするけど、もちろんそういう気安さ、身近でお手軽な感じというのは複製の重要な特徴なんですが、美術館が公開する画像というのはせめて大雑把に扱わないでほしいと思うわけです。

作品の複製がネットを介して私たちのもとに届けられるという経験を重視したい私のような立場からすれば、作品の画像が展覧会をきっかけとして、初めてネット上に公開されて流通していくことはとても喜ばしいことです。でも、とくに今回みたいな改変によって、作品の複製が一時的に消費されるものにすぎなくなってしまうというのは残念なことです。

前回の記事でも書きましたが、複製というのはまったく評価されていません。大量に流通する作品の複製画像は、その存在自体がいつか歴史的な評価を受ける時がやってくるはずですので、今のうちからちゃんとした扱いをしてほしいなと思います。


追記:2023/10/15

思いのほかこの記事が読まれることになり、いろんな意見をもらったので追記をしておきたいと思います。

まず、この記事を読んだ人の中で、展覧会のポスターやチラシにおいて作品を加工することの是非についての問題だと捉える向きの意見がありました。たしかに、著作権法60条を持ち出して作品の改変を問題にした以上、そういう捉え方になってしまうのも仕方なかったと思います。

ですが私は、そういったポスターなどでの作品の改変は、問題視していません。では何を問題にしているのか? この点が明確化できていたかったため、意図が伝わりにくいものになってしまっていたと反省しています。

問題にしているのは、作品の画像が作品の忠実な複製として提示される場合には、加工や改変はされるべきではない、ということを言いたかったのでした。

作品画像が作品の忠実な複製としてネット上で提示されることで、展覧会の広報という商業的かつ短期的な目的を超えて、その画像がデータとしてネット上で流通し、こういう作品が存在するのだと人々に認知されていくための資源として活用されていくことになります。

そうした長期的な目線に立つとき、作品の忠実な複製はなるべくその忠実さが保たれるように扱われるべきだと考えます。そして、それは広報用の画像データとして使われることと矛盾も相反もしないはずであるから、なるべくそうするべきだという意見をまず言うべきでした。それよりも先に複製だからって雑に扱うのはよくないという道徳的な問題にするのはあまり得策ではなかったかもしれません。複製に対する私の思い入れが前に出すぎていたかもしれません。

まぁしかし、いまのところ、「ネットに何でもあると思うな」とか「ネットなどというジャンクな空間がどうであれ本物の作品は毅然と存在している」とかいう反応が飛んできたくらいで、その理屈は正当化できないでしょとまでは言ってくる人はいなかったですね。

ネットに情報がないのが当たり前というのは教育をしっかり受けているほど前提にしがちです。たぶん私に上のようなことを言ってきたのはそういう自負のある人たちなんでしょう。

ところで、たとえばWikipediaなんかは、その手の人がバカにしがちなサイトの筆頭に挙げられると思いますが、たとえ現状ではジャンクな空間でも、誰でも手軽に閲覧できる場所にまともな情報がないというのは機会の損失ですから、ちょっとでもまともにしていくのが良いですよね。

まぁありていに言えば、そうやってこういう問題に対して「ネットになんでもあると思うな」という程度の認識で済ましてしまう向きが多すぎると、一般人の情報に触れる機会はどんどんなくなって、業界的には超有名な作家でも若い人にほとんど知られてないみたいな流れが加速していくんだろうなと思います。

ネットばっか見てないで本を読んで情報をかき集めてきなさいという話はアカデミックな教育で必ず通る道ですし、本やネットの図版なんかじゃなく本物を見てこいと言い続けるのが教育の仕事であることもたしかです。

しかし、美術の熱心な愛好者でも、なんなら本職の人でも、時間や予算の関係で諦めなければならない展覧会なんてざらという現実が一方であるわけです。そんなときでも、じゃあネットに繋がりさえすれば、本物をみれなかった作品のまともな複製を見ることができるなら、それは心強いことじゃないかと、そうは思いませんか。


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