英国政府発の行動経済学コンサルチームはなぜ成功したのか(その1)

英国版国家戦略室での失敗

2003年のある日。英国首相官邸の戦略ユニットでチーフアナリストを務めるデビッド・ハルパーンは、英国名物ポークパイの写真とともに載ったある新聞記事に関する釈明に追われます。

「戦略ユニット、肥満税を提唱」

ケンブリッジ大学で心理学を教えていたハルパーン氏は、2001年に労働党のブレア政権が立ち上げた戦略ユニット(日本の民主党政権下の国家戦略室のモデル)に参加します。戦略ユニットはブレア政権を支える頭脳として多くの報告書を出しますが、ハルパーン氏がまとめた「個人の責任と行動の変化 "Personal Responsibility and Behavoiur Change"」という行動経済学を政策に応用する可能性を探った報告書が新聞に取り上げられ、問題とされたのです。

問題となった部分は、健康な食品と不健康な食品とで税率を変えることで、健康な食品の消費を増やすことができるのではないか、という過去の研究を紹介した箇所です。この部分が「肥満税を導入か?」という風に面白おかしく取り上げられてしまったのです。各閣僚の推定体重とともに「最も太った大臣は肥満税をいくら払うんだ?」と見出しが付いた記事が出たり、官庁街のカフェにも「肥満税が始まる前に、バターを塗ったサンドイッチを食べよう!」なんて落書きがされてしまいます。

税率を変えて人の行動を変えようという政策は、行動経済学というよりもインセンティブを使った伝統的な経済学の範囲に入るものです。しかしこの騒動は、ブレア首相が行動経済学を政策に応用する考えがないことを公表することによって、終息に向かいます。行動経済学を政策へ応用するという議論自体が、一旦は葬られたのです。

キャメロンとの出会い

2010年の総選挙に向け、1997年から野党の座に甘んじていた保守党のキャメロン陣営は、「大きい政府ではなく、大きい社会(ビッグソサエティ)を」というキャッチフレーズを発表します。小さな政府という保守党の基本方針を守りながらも、民営化を推し進めたサッチャー以来保守党が持つ社会に対して冷たいというイメージを払拭する狙いです。

キャメロン陣営の若きブレインたちが、その政策を練る中で出会うのが「ナッジ(邦訳:実践 行動経済学)」という本です。「ナッジ」とは肘で軽く突くという意味です。本の内容は、法律で行動を制限したり、金銭的なインセンティブで行動を動かそうとしたりする以外の方法で、人間の持つバイアスを考慮しながら人間の行動を良い方向に導こうというものです。(有名な例としては、男性用の小便器に蝿の絵を描くことで、利用する男性が蝿を狙うため小便器の周りの汚れが減少した、というものがあります。他の例は後ほど。)

政府を小さくしたまま、どのように社会を良くしていくかというキャメロン陣営の発想と、ナッジで唱えられた行動経済学の利点が、合致したのです。さらには、2008年のリーマンショックから始まる金融危機が、既存の経済学や政策立案への疑念を生んでいた中で、新しい学問的知見が求められていました。そうした背景から、行動経済学の専門家として、当時は戦略ユニットを去っていたデビッド・ハルパーンに白羽の矢が立つのです。

コンサルチームの立ち上げ

総選挙で労働党を破ったキャメロンは首相に就任し、第3党の自由民主党との連立政権を組みます。そして、デビッド・ハルパーンを筆頭にした、Behavioural Insights Team(行動経済学チーム)が、2010年に内閣府の中に立ち上げられます。7人のスタッフと1億円弱の予算という小さなチームです。行動経済学を政策に応用するためのチーム、というのは前例のない取り組みです。政府の中で働いた経験が長いハルパーンは、これまで多くの改革の試みが中途半端に終わるのを見てきました。素早く、分かりやすい結果を出す。そのための仕掛けとして、3つの目標を掲げます。

「2つ以上の政策分野に変革を起こす」
「行動経済学の考え方を政府内で広める」

「初期投資額の10倍の利益(=節約)を得る」

そして、上記の目標を2年間で達成しなかった場合は、チームを解散する。

キャメロン首相の政治的な後押しと、ハルパーンの生んだ緊張感が、行動経済学チームに勢いを生んだのです。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?