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 八月の骨の髄まで届くような熱気もようやく鎮まってくる夕暮れ時、小泉は近所の見慣れたお寺の前でふと、散歩の足を止めた。住宅街の間に僅かに引っ込んだかたちで伸びている参道の奥に、本堂を囲んで垂れ下がった鯨幕が見える。
────葬式だ。
 彼はその物珍しい光景を見て、身震いするほどの興奮を覚えた。というのも、彼は誰にも明かすことのないある趣味を持っていたからだ。見ず知らずの他人の葬儀に参列すること、それこそ彼が密かに味わってきた暗い楽しみだった。


 きっかけは会社の上司に弟の葬儀に代理出席をしてほしい、と頼まれたことだった。その上司はその辺りの土地でも知れた名家の生まれで、人望がなかった上に情事のもつれで殺された彼の弟に焼香をあげに来る者があまりにも少ないと、他の家の者たちに示しがつかないというのだ。小泉は上司の奇妙な虚栄心に呆れつつ、さして断る理由もなかったためそれを引き受けた。
 閉鎖的な雰囲気が色濃く残る田舎の街とはやり難いもので、頼まれた葬儀に行ってみると本当に隅の方で押し殺した忍び笑いが聞こえてくる。どうやら上司の弟───浩二というらしい───がろくでもない男ということは周知の事実らしかった。焼香をあげ終わり、席に戻ってくると隣から女が話しかけてきた。
「ほんと、情けないわよねぇ」
 小泉がはあ、と相槌を打つと、彼女はさらに続けた。
「刺されたんですってね。しかも何年も前に振った人に。昔から色んな悪さしては次から次へと女を取っ替え引っ替えしてたから、どうなるかと思ってたけど。まさかほんとに刺されるとはねぇ…ところであなたは、浩二さんのお知り合い?」
 堂々と彼を貶したのち、ようやく彼女は小泉と故人の関係を尋ねた。浩二に友人がいるなどとは露ほども思っていないようだった。
小泉は、そこまで軽んじられる彼を哀れに思った。そして、悪びれもせずに先ほど手を合わせたばかりの故人に毒づくその女の顔をじっと見つめていると、不意に涙が溢れてきた。
 ギョッとする相手に構わず、彼は震える声で言った。
「僕は彼の友人です。彼はあなたの言うような人間ではありません。彼にはいいところが沢山あるんです!ついこの間だって…」
 捲し立てているうちに声がうわずって、今度は式場のみんながギョッとした顔を彼に向けた。その中には彼の上司の顔もあった。どうしようもなく切なさが込み上げてきて、思わず彼は立ち上がり、そのまま式場の出口へと早足で駆けていった。
 参列者たちが小泉を見送った後も衝撃を受け茫然としていた頃、外の彼は嗚咽を漏らしながら押し寄せる快感に貫かれていた。見ず知らずの人のために自分がここまで感情的になれるとは、思いもよらなかった。今では本当に浩二が自分のかけがえのない友で、遠い昔に何か大きな恩を彼から受けたような気がしている。彼は葬儀場の軒下で、声が枯れるまで泣き続けた。
 その時から、彼は誰か自分とは全く関係のない人間の葬儀に参列することを習慣とし始めた。小さな田舎町に葬儀場は一つしかなかったので、隣町やその向こうの町の葬儀場にも参列した。三つの町のどこかでは毎日誰かが死んでいた。毎週末には必ずどれかの葬儀場に顔を出した。時には仕事の合間を縫って平日の昼間から向かうこともあった。
 彼は毎回焼香をあげると棺に向かって丁寧に頭を下げ、ゆっくりと自分の席に戻った。 そして花束に囲まれた故人の遺影を見つめていると、決まって涙が溢れてくる。散々泣き腫らして息を切らすほどになると、その頃には故人が古い友人であったように思えるのだった。
 それは彼にとって未知の感情であり、何にも変え難い大切な体験となった。彼には知らない誰かのために感傷的になることが心地よかった。ときに遺族から怪訝な目で眺められることもあったが、その度に自分は故人の古い友達だと偽り、そうやって嘘を重ねていくことで彼には個人との絆がより強固なものになっていくように感じられた。そうやって赤の他人の悲しみを勝手に背負い込むことが彼には快感だった。
 平日は働き、週末は葬列に並ぶ。そんな生活を三年ほど続けた頃、covid-19が世間を賑わせ始めた。海の向こうで初めて観測されたそれは、瞬く間に日本にやってきた。そして小泉の住む小さな町で初めての感染者が出るまでにそう時間はかからなかった。
 感染症対策はあらゆる業界で半ば暗黙の了解として進んでいったが、それは葬儀場でも同様であった。以前のように部外者がほぼ自由に出入りできるような脇の甘さはなくなり、一連の儀礼は短縮された上に身内のごく少人数で行われることが当たり前となった。
 そのため、彼はもう一年半以上他人の葬儀に参加していなかった。四月に身内の訃報があり、そこで久方ぶりに葬式に出席したが、彼にはそれが非常に物足りなく感じられるのであった。知らない誰かの悲哀に心を寄せていく自身のダイナミックな心の動きに、彼は大きな感動を感じるのであって、自分に近しいものの葬儀は彼にとってただ悪戯に悲しいだけのつまらない行事なのであった。
 唯一の心の拠り所を失った彼の生活は精彩を失った。激しくも豊潤なあの悲しみのない人生は、今の彼にとってはなんの価値もないものだった。


 そんな折、鯨幕を見つけた。日が落ちかけ、風も無く、暗さを増していく視界の中で、黒と白の縞模様は周りに向けて深い沈黙を吐き出していた。あまりにも厳かなその佇まいに小泉は思わず息を呑む。今時、寺社で葬儀をあげる者は珍しい。葬儀会社に取り仕切ってもらい式場を借りるケースがほとんどだろう。小泉自身、馴染みのあるこのお寺の本堂に鯨幕が掛かっているところを初めて見た。だからこそ彼は自分が強烈に引き寄せられるのを感じた。
 悲哀の引力が小泉の足を引っ張っていった。儀礼に立ち会うことはできなくても、せめて近くから眺める事は許されないだろうか。彼は一年半もの間感情のやり場を失っていたから、思っても見ない機会に震えるほど期待していた。
 しかし本堂に近づくにつれ、ある違和感が湧き上がってきた。本堂の中から、人の気配が感じられない。その時不意に誰かが小泉に向かって声をかけた。
「すいません、なんの御用ですか?」
スーツ姿の女性が、本堂の右手、寺務所がポツンとある方からこちらを見ていた。
「いえ、用があるわけではないのですが、葬式が行われているのかと思いまして、物珍しいものですからどうも気になりまして」
動揺を隠してそう言うと、彼女がこちらの方に歩み寄りながら言った。
「葬式ではありません」
 彼女はなおも近づいてくる。
「オリンピックの、開会式です」
「え?」
あまりにも唐突な話に彼は上手く答えることができなかった。彼女は今、なんと言った?
「オリンピックです。二〇二〇年東京オリンピックの、開会式が行われるんです。」
「でも、そんなわけないじゃないですか…ここは東京でもないし、山奥の田舎の小さなお寺ですよ?そもそも開会式って、オリンピックの競技場でやるはずでしょう」
ありえない、と小泉は思ったが、彼女は嘘をついているように見えなかった。この辺りでは見かけないきちんとした身なりをしているかもしれない。セットアップの黒いスーツに、低い位置に結われた黒い髪。そして胸元には、五輪が描かれた金色のバッジ…
「先日、開会式のプロデューサーが解任になったことはご存知でしょう。その前には音楽担当の方も辞退なさって、開会式の演出内容が土壇場で白紙になってしまったんです」
「でも、プロデューサーがいなくとも予定してあった計画通りに進めればいいのでは?」
いいや、と彼女は首を振った。
「彼が解任となった理由は知っていますか。そう、過去にナチスによる大量虐殺を揶揄していた事実があったからですよ。それで私たちもまさかと思いましたが、彼による演出をもう一度確認してみると、そこにはホロコーストや西アフリカの内戦、中東の民族紛争、広島と長崎への原爆投下など世界中の様々な負の歴史を揶揄する内容が密かに散りばめられていたんです」
「いや、それはめちゃくちゃじゃないですか」
あっけに取られて彼は言った。それはことが大きくなる前に気づけなかったのか。それに、結局今の話ではこんな辺鄙な場所で開会式が行われる理由が分からない。すると彼女が、
「それでも、選手の入場と聖火の到着、内容をそれだけの単純なものにして開催しようという話に一旦は纏まりました。しかしそんな時に競技場の爆破予告があったんです。」
そんな、と小泉は絶句した。
「もちろん東京はテロ対策の厳重な体制を敷いています。怪しい人物を競技場に近づける事はないはずでした。しかしそれもテロリストが一人や二人ならの話です。」
暗い表情で女性は続ける。
「今、新宿には暴徒が詰めかけています。スタジアムの周りにバットや刃物を持った人々が集まり、警察や特殊部隊と交戦状態になっているのです。どこから入手したのか拳銃や機関銃を所持している輩もいるようです。開会式など、とても行える状況にありません」
「知らなかった…」
「無理もありません。都は大規模な報道規制を行なっており、地上波の放送局はほとんど区内に立ち入ることすらできない状況なのです。これは暴動が全国的に波及することを防ぐための措置のようですが、それも無駄なことです。すぐにSNSで拡散されてしまいますから」
言葉も出なかった。暴力手段に訴えかける人々がそんなにいるなんて。小泉が二の句を継げずにいるうちに、彼女はなおも続ける。
「そこで、開会式実行委員会はある計画を実行するに至ったのです」
「計画、とは?」
小泉には不吉な予感がしていた。既に日は完全に沈み、辺りは暗い闇に包まれている。
「開会式のプログラムを二つに分ける、と言う計画です。一つ目は式典の要である選手入場、予定通りこの後19時よりオリンピックスタジアムで行われます」
「馬鹿な!スタジアムは暴徒に包囲されているんでしょう!そんな危険な場所に選手を向かわせようだなんて、何を考えているんですか!」
小泉は思わず叫んだ。彼女は震える声で続ける。
「上の人たちは警察や機動隊による制圧を本気で信じているようです。しかし、もし予定の時間になっても暴動がおさまらなかったら、その時は…」
「その上の人たちというのは、一体どこにいるんですか」
尋ねると、彼女は後ろを振り返った。その視線の先には小さな寺務所がある。
「プラグラムのもう一つ、聖火の点灯は予定を大幅に変更し、このお寺の事務所で行われます。」
「聖火台が、あの中にあるんですか?」
「はい」
小泉はひっそりと佇む小さな寺務所を見つめた。一見すると納屋かと思えるほど簡素なつくりをしていた。あの中に、聖火台がある。そして混乱の中開会式を強行する、組織の上層部がいる。玄関のすりガラスの奥で、蛍光灯の光の中人の影が動いたような気がした。
私には、と彼女は暗い闇の中で言った。もはや泣き出しそうな声だった。
「私にはどうすることもできなかったんです。直前に企画担当の中心人物たちが次々と辞めていく中で、実行委員会は深い混乱状態に陥りました。とにかく、時間がなかったんです!意思決定の責任は組織内を右往左往し、結局誰がこのような形での開会式決行を決断したのか、今となっては分かりません。いろんなことがめちゃくちゃになってしまって…ここで聖火の点灯が行われることも、外部に漏れたら暴動の波がやってくるでしょう。本当はこんなこと、あなたに話すべきではなかった…問題の聖火だって、通例通り人に持ち運んでもらっていてはすぐに見つかってしまいます。ここで行われているのは葬式だと見せかけるために、聖火を霊柩車に乗せて運ぶんですよ!」
「そんな…」
 二人の間に深い沈黙が降りた。街灯もなくあたりは真っ暗だが、事務所から漏れ出る明かりで女性の輪郭が薄く照らされている。小泉は自分の中に言いようのない思いが流れ込んでくるのを感じた。長い間忘れていた感情だった。
「あなたは中に入らないんですか?」
闇の中で彼女がこちらに困ったような微笑を向けた。
「男性しか入っちゃいけないみたいなんです、あそこ」
 そうなんですか、と低く呟いたとき、本堂の裏手から砂利を擦るような音が聞こえてきた。霊柩車に違いない。ついに遠い異国から絶やさぬようにと運ばれてきた希望の灯りが、聖火台に灯るのだ。そして混乱と不安の最中、オリンピックの幕が上がる。今頃選手たちは入場を開始しているだろう。暴動を抑えることができなければ彼らは皆殺されてしまう。そうなれば、その火を灯す理由も無くなってしまうのに。参加者のいないオリンピックが今、開催されようとしているのだ。
 不意に小泉の目から大粒の涙が溢れ出した。抑えようのない悲哀が心を満たしていく。その場に座り込むと、彼は何度も嗚咽を上げた。視界の隅では鯨幕が、厳かな沈黙を纏って垂れ下がっていた。(終)

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