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エッセイ281.東京へ帰る(1)

前回投稿してから1ヶ月経ちました。
中断していたのは、夫の仕事の関係で東京へ戻ることになり、ばたばたしていたためです。調布市のアパートに引っ越したのがこの27日です。
今日からしばらく、 この2ヶ月ほどの間のことを書いていこうと思います。

まだ残暑厳しかった9月の終わり、帰宅した夫が、
「雇用延長が決まりました。東京に戻ります」
といきなり言ったので驚きました。
雇用延長後の5年間は名古屋住まいだと思っていたからです。

その後のことを書く前に、2022年をさらっと振り返ってみます。

3月3日に母が亡くなりました。
介護認定を受け、要介護度3の判定の下りた直後でした。認知症後期であり、この日の未明 自宅で徘徊の末、転倒して硬膜下出血を起こし、数時間後には自宅から旅立ちました。
父も要介護度4の認定が出たばかりで、介護ベッドで寝たきりです。
また、同居で介護をしてくれていた姉がこの直前、腰椎の圧迫骨折をしていたこともわかり、こちらも安静が必要ということになりました。
葬儀には父と姉は参列できず、私たち一家四人で母を見送りました。

4月の始めに四十九日の法要。
姉に代わってすることが意外に多く、五月までは毎週上京していました.
父の介護保険関係・母の年金や健保、生保関係、姉の特別支給の厚生老齢年金の手続きの代行など、なかなか一回の弾丸ツアーでは片付きません。
コロナ禍はどこも人手不足で、なんでも予約が要るのでした。

三月半ばですが、夫の血のつながった祖母が亡くなりました。
このおばあちゃんとは仲良くしていましたが、夫の産みの母のそのまた母です。コロナ禍で到底渡航はできず、お葬式はライブ中継で参加しました。

三月はまた、卒業式間近まで迷走した次女の就職が決まり、2週間のうちにアパート探しと契約、引っ越し。あっという間に行っちゃいました。

五月には、自転車で通勤中の長女が、急にドアを空けたトラックのそのドアに激突して宙を飛び、救急搬送。むち打ち症で、しばらくエリザベスカラーをつけていました。

六月には次女がコロナ感染。オミクロンは若い人は症状が軽いと聞いていましたが、39度〜40度の熱が4、5日続いたそうです。・・たそうですというのは、「おかんが来てもアパートに入れないから来なくていいよ」
と本人に言われたからです。ウーバーイーツの配達でなんとかしたそうです。

六月末には、夫の育ての母が亡くなりました。
その頃はまだ、直行便は週1ぐらいの運行でした。
乗り換えの多い普通のフライトの航空運賃でも、従来の3倍でした。
私たちの旅程では、乗り換えは2回か3回。シンガポール、クアラルンプール、ヌメアなど経由、飛行時間は38時間前後でした。
娘二人と夫はニュージーランド国籍があるのでスムーズでしたが、私はワクチンパスポートが、危篤の知らせがちょうど週末であったために取れず、一日の差で義母の死に目には会えませんでした。

また、義母の亡くなる一日前に、夫の実の父という人が亡くなりました。
同じオークランド市内で葬儀がありましたが、さすがに行くことはできませんでした。この人がいなければ、夫も娘たちもこの世に生まれてこなかったわけですが、これはまあ仕方ないです。会ったこともなかったですし。

義母の葬儀の後、私は一人遅れて帰国しましたが、出発の朝、スーツケースの重さを測っていて、ぎっくり背中(初耳)というのをやってしまいました。シンガポール乗り換え待ち時間6時間。9時間半と6時間半の細切れ飛行も、背中のおかげでほぼ眠れず。
「今後は、どんな辛いフライトも平気かも」 と思える貴重な体験になりました。

東京帰還の知らせを受ける前の八月末、長女がシドニーへ発ちました。
元の職場から推薦を受けることができたとかで、そのシドニー支社で働くため、スーツケーつ1つで羽田から出発したのです。
羽田のがらんとした出発ロビーの夜9時過ぎ。
唯一空いていた食堂で鰻を食べて、見送りました。

次女はブラック企業に就職して突発性難聴になっていましたが、6月20日退職、21日祖母の葬儀のため渡航、7月1日には次の職場初日でした。
聞いただけで目が回ります。


意外に早く夫婦二人の生活が始まり、本格的に断捨離をしようと思っていたら、まさかの転勤の知らせ、という流れです。

続きます。

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