評価を気にすれば創作意欲はたちまち潰れる
このところ、YouTubeに翻弄されている気がする。いや、間違いなく振り回されている。
アカウントを開設してから半年ほど放置していたものの、説明なども難しい何かが僕の中に降りてきて、動画を作れと囁いたのがこの春のこと。右も左も分からずに、iMovieでへっぽこな、それこそとても動画ともいえないような代物を作ってみてはアップする日々がそれから始まった。
フォロワーはまだ0だった。だから、いくらアップしても誰も見てくれるはずもなく、アップするたびに「俺はダメだ」の呪文にとらわれだす。それは息をするのもアップアップするほどの苦痛の日々であった。
ところが、である! ある日のこと、夜半に「どうせまたダメだろ」と後ろ向きにアップしてそのまま寝てしまい、ついには翌日の夕方までネットを開かずに、いや開くと自分が嫌になるのでもはや手が動かなかっただけだが……、とにかくその夜の帳が下りる頃にやっとネットを立ち上げてみると、?のマークが頭に渦巻く事態に直面した。
——視聴回数が350回?
それまでは、いくらアップしても一桁であったものが、350回? と何度も数字を見直す。
何が起こったか分からず、とりあえずどんなところからアクセスがあったのかを調べると、なんとインドらしく。。
たまたま、サムネイル用に二匹の子猫が写ったいい写真があったので、あわよくばと使ってみれば、蓋を開けると当たりで……。まぐれかな、いややはり計算した通りに、「可愛い写真が受けたのかもしれない」などというくらいしか、その要因について想像を巡らすことは出来なかった。
ただ、ここは何かひとつの大きなポイントかもしれない、と直感したことも事実。だからこそ、それからは同じ時間に同じようなサムネを作り、似た紹介文などをアップして、それも翌日の夕方まで放置して待ってみる、というようなことを試しにやり続けてみると、二回に一回くらいの頻度でYouTubeのおすすめ動画として取り上げられるという夢のような出来事が続いていく。
もちろん、ここは「継続」の一択以外、選択肢はありやしない!
お前それは験担ぎにすぎない、と言われれば返す言葉もないが、まあいいではないか。何にせよ、オススメされる、などという奇跡のようなことでもなければ、フォロワー0 のアカウントでアップした動画になど視聴者がつくわけもないのだから。
何より、予定通りにオススメがなされれば、「俺はダメ」の呪縛から自分を解放してくれるわけで。それほど有り難いことはないのだ。
もとより、作った作品が誰の目にも触れることなく、ただ時間だけが過ぎるその苦痛は到底言葉では言い表せない。
よく、SNSでひたすら投稿している垢などを見かけるが、何となく気持ちがわからないわけでもない。というか、どこか親近感を勝手に感じてしまう。もし、何かを呟いて何も反応がないと、言い知れぬ焦りや不安が湧く。というか、そういったものがやはり頻繁な投稿の裏側にもあるのではないかとも思ってしまうからだ。
ただ、Twitterなどにおいてすらこれは同じくで、もしフォロワー数が極めて少なければやはり反応も小さくならざるを得ないわけで。大体は、こういう蟻地獄のような投稿罠というものに、気がつけば多くは落ちていくのではなかろうか。
さて、YouTubeの話に戻ろう。僕は、ある時点を過ぎたくらいから、初期の焦りにも似た「反応ほしさゆえの投稿」という強迫観念みたいな呪縛から脱却した。その頃にはもう、あまりにも無反応が続く時間を経たことによる、どうせダメだろうという諦めの境地に差し掛かっていたから。
普通の場合、このあたりを境に「もうやめた」となるのではなかろうか。
まさに、そんな頃、先のようなオススメ騒ぎが起こったわけである。自分のなかで、「もうやめた」と半ば決心していた気持ちがグラついた。「もう少しやってみるか」と。
その後、何度か同じようなラッキーに恵まれ、一度ならず二度までも視聴回数1,000回超えのご縁に恵まれた。僕のなかに、やめたいという気持ちはもう微塵もなくなっていた。ただ、その数字のカウントが上がっていく快感にひたすら酔いしれて。
フォロワーさんもちょっとだけ増えはじめた。
なんだ、YouTubeにもこんな隠されたコツみたいなものがあったのか。それもどうもそんなに難しくもなさそうだ、と調子に乗りつつある自分が傍らにいた。
ところが、人生、そんなに思い通りにいくものではない、ということを改めて教えられる事態にすぐに直面することになる。
ある日を境に、オススメされることはなくなった。理由はわからない。いわゆる験担ぎのように、同じルーチンで同じような作風で作ってはアップするが、まったく、うんともすんともいわない。
こうなると面白くなくなるもので、人間の心とは本当に適当というかいい加減なところで揺れ動いているのだなと、改めて自覚させられるわけである。
要するに頃の頃にはまた、アレがやってきたわけだ。「俺はやっぱりダメなのか」という困ったアイツが。
と、その時、鬱憤晴らしのように開いたTwitterに、水木しげる語録が流れてきた。こうあった。「学校は追い出され、会社でもうまくいかなかった。戦争で腕も片方なくした。それでも平気だったのは、自分が楽しくなれることを常に見つけて、自分が幸せになる術を身につけていたから」
ガツンと頭を殴られたような気がした。
自分は何のために動画という表現方法を選んでせっせとアップしていたのか。視聴回数が欲しいからか? フォロワー0 のくせにそんな大それたことなどよもや思うはずもなく、当然のことながらあるわけがないと最初からわかっていたことなのに、ちょっとアップしては反応がないとすぐに落ち込んでしまい、ついにはもうやめるだなんて、思い返せばなんとみっともないことを繰り返していたのだろうか。
水木しげる先生にぶん殴られてもこりゃ仕方がない。
動画は、そこでしか表現できない世界があることに気づいたから、それまでのテキストだけでの表現の枠を広げたくて、取り組み始めたことだったのに、いつの間にかその原点を見失っていた。
周りのことが気になりすぎると、それはやっぱり危険なのである。そう、だからこそそれこそが一番の「ダメ」だと知っていたはずなのに、気がつけば迷いの中に取り込まれている自分がいた……
さて、次にアップする動画がもし「オススメ」されたら、恐らくそれは正直きっと嬉しいことだろう。俺はダメなんかじゃなかった、と天にも昇る心地になるかもしれない。だが、無反応でも全然悪くないではないか、とも今は思っている。
なぜなら、その作品は純粋に作りたくて作ったわけで、その時間の楽しさに、自分はたしかに救われていたはずなのだから。そんな時間を過ごせたことこそが、一番価値あることなんではないだろうか、と、水木しげる先生は教えてくれた。
などと独り言を呟きながら己を慰めつつ、だが当然のことながら、次の「オススメ」を狙って、ただひたすらに作品を作り続ける日々が、今しばらく続きそうである。まさに、懲りない面々というヤツだろうか……。だが、自分がやりたくて作りたくて楽しみたくて仕方がないのである。
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