七つのロータス 第31章 オランエ II

 オランエは城門の手前で足を止めた。大きく開け放たれた門を、装束も様々な人々が皆重そうな荷物を持って、間断なく出入りしている。
 結局、グプタまでやってきてしまった。チャクリヤナ師の言葉をどう考えて良いのかもわからないままに、ただその言葉に従ってはみた。だがグプタに来たからと言って、どうすればよいのか?オランエには何一つわかってはいなかった。
 身に纏った僧衣の他に、持ち物ひとつもっていない。乞食坊主に施しをしようという者でもいなければ、寝る所も食べる物もない。オランエは溜息をついた。 瞑想者の森では常に野宿だし、断食の行を積むことも珍しいことではないが、仲間に囲まれて修行をすることと、行くべき道を探しあぐねて街路の端で横たわる のとでは全く違う事のように思える。
 そもそも在俗の人々との縁を切り、隠遁生活を送ることが修行の第一歩の筈。それなのに師は妹の力になれと言う。それが不思議だ。ならばこれから昔の馴染みの世話になっても、正法に反することにはならないのだろうか。師は自分に還俗して皇宮に帰れと命じた。だが今の皇宮に帰る場所があるものだろうか。皇宮を出て五年。二年前、ナープラ即位の式典にチャクリヤナ師の伴で訪ねた時にも、お客様扱い以外の何物でもなかった。皇宮に帰ることができなければ、誰かほかに頼るべき相手を見つけねばならない。
 オランエは思いきってまた足を進め、行き交う人々に混じって門をくぐった。

 行き来する荷担ぎ人足たちを避けながら、市場へと入る。気が遠くなるような雑踏に揉まれながら、無意識に記憶にある街並みと今の景色を比べていた。途中、何度か呼び止められ、その度に相手の心の平安を祈り、代わりに僅かな穀物を受け取った。いずれ自分を見知っている誰かに出会ったりするだろうと思っていたが、そういうこともないままに雑踏を抜け、裕福な人々の屋敷が軒を連ねる一角へと入りこんだ。
 かつて皇子の衣を身につけていた頃、オランエは庶民から敬愛されていると思っていた。どのような雑踏の中でもオランエが歩けば人々は道を開け、オランエが暮らしむきを尋ねれば丁重な言葉で皇帝に対する感謝をかえしたり、慎み深い口調で要望を述べたりした。
 つい数日前までチャクリヤナ師の一番弟子であった頃、オランエは人々から敬愛されていると思っていた。貧者に施しを与えれば彼らは叩頭して感謝の言葉を述べ、流行り病で街から追放された人々の集落を見舞って治療すれば、彼等は涙を流して感激した。人々は平伏し聖者だ上人だとオランエを呼び、オランエはま だそのように呼ばれる許しを師から得てはいないのだと答えた。地に伏す人々の前に膝まずき、その手を取って顔を上げさせる。顔の高さを等しくさせた相手に 微笑みかける。その時オランエの胸は喜びに満たされていた。
 しかしもはや、オランエはチャクリヤナ師の弟子ではなかった。皇子の地位も、とうに捨ててしまっていた。いったい何を頼ればいいのか。そう思いながら、 街路を歩きまわる。誰の屋敷か覚えているものもあり、まるで見覚えのないものもある。やがてひとつの門の前で足が止まった。探していたものに巡り合ったような気がして、オランエはその門をくぐった。

 庭も建物もこのあたりではむしろ質素な部類で、門をくぐると小さな前庭を挟んで、すぐに母屋が見える。数歩庭の中に歩み入ると、母屋の戸口に立って中にいる人物にあれこれ指図していたらしい男が近づいてきた。
「いらっしゃいませ、当家になにかご用でしょうか?」
口調は丁寧だが、あからさまに警戒の色を浮かべている。現在のオランエの風体を考えれば、無理からぬことではあるが。
「ご主人にごく内密な話があって参りました。お取次ぎ願いたいのですが」
「失礼ですが、お名前をいただけますか」
「チャクリヤナ師の弟子でオランエと申します」
男はオランエの名を聞いても驚いた様子はなく、オランエに待つように言って母屋に入っていった。その態度には少しオランエを戸惑わせるものがあった。皇子 として育ち、高名な師の弟子として知られ、名を名乗るたびに驚かれるのに馴れた身にはこのような素っ気無い対応は拍子抜けだとすら言える。まあ、男の立場を考えれば、来客の身分にいちいち驚いていては仕事にならないのだろうが。

 待つことしばし。男が戻ってきて、裏庭に面した一室にオランエを通した。男が一礼をして出てゆくのを見送ると、オランエは立ったまま庭を眺めた。はじめて見る庭は、所狭しと生い茂る草木で覆われ、重なりあう葉がまったく視界を隠してしまう。先生の性格をそこに見るようで、口元が綻んだ。

 物思いは背後からの声で破れた。
「俺に何の用だ?」
思いがけない声に振り返る。
「ラジ、君じゃない。先生にだ」
ラジは部屋の中に大股に進み入り、床に広げられた敷物の上にあぐらをかいた。
「この家の主人に用があると言ったのだろう」
「まさか!先生は亡くなられたのか」
ラジに向き直ると、大柄な男は召使に果物と水差しを並べさせていた。相変らず不必要に大きな声を出す奴だ。そのせいかどうか、飲み物を運んできた娘が、怯えたような表情をみせた。
「まあいいから座れよ。久しぶりに会ったのに、その態度はないだろ」
ラジは部屋の隅に立つオランエを見上げて笑った。その笑顔はオランエの緊張を少しばかり和ませた。
「すまん、少々気がふさいでいてね。神経質になってたよ」
笑顔を返しながら、相手の向かいに座る。ラジは鶴の首のように繊細な曲線の注ぎ口をした水差しで、手ずから二人分のコップに果物の匂いのする水を注いだ。
「それで?先生は?」
「お前が来たことは知らせてあるから、もうすぐ来るだろ。今じゃ親父も隠居の身でね、この家の主人と言えば俺のことになる」
オランエは納得し、頷きながら水の入った杯をとった。冷たい金属の感覚が指先に伝わる。
「で、親父にいったい何の用なんだ?」
ラジはまた人好きのする笑顔を向けてくる。
「悪いけど、先生と二人だけで話したい」
好奇心満々といった面持ちの旧友に、このような言葉をぶつけるのは心苦しかったし、ラジが一瞬の戸惑いの後で僅かに拗ねたような表情を浮かべたのを見て、罪悪感はいっそうに増した。だが、ここは譲れない。オランエは本能的にそう思った。
「悪いね」
オランエはできるだけ軽く言う。
「まあ、それなら仕方ないな」
ラジが簡単に引き下がったので、オランエは胸をなでおろした。

 先生―ティビュブロスは足音もたてずに部屋に入ってきた。ラジとの会話に気詰まりを感じて、密かに先生を待ち構えていたのでなければ、気づかなかったかもしれない。オランエはかつての師に対し、深々と頭を下げて長の無沙汰を詫びた。ティビュブロスはゆっくりとした足取りでラジの後をまわり、部屋の奥に座を占めた。
「久しぶりだな、オランエ。しかし良いのか?修行者にとっては旧交を暖めるなど、俗世との未練に過ぎないのではなかったのかな?」
先生はかつてと変わらぬ穏やかな話し方で言った。少し白髪が増えたようではあるが、まだ老けこんではいない。隠居というのは皇宮での仕事を辞して、学問に専念するためだろう。
「チャクリヤナ師からは破門されました」
オランエが搾り出すように言った言葉に、先生は少し目を見開いただけだった。
「いったい何があったのだ?」
暫く何事か考えた様子の後で、ティビュブロスが訪ねる。オランエはラジに目配せをし、ラジがひとつ頷いて部屋を出て行くのを確かめてから話を続けた。声をひそめ語った。パーラの来訪とチャクリヤナ師との対話のこと、そして今オランエ自身が何を為すべきか途方に暮れていること。
 ティビュブロスは表情一つ変えずに、時折頷きながら丁寧に話を聞いてくれた。
「なるほど、そういうことか」
オランエが最後まで話し終えると、ティビュブロスが呟いた。そして黙ってただオランエに視線を注ぐ。オランエは居心地の悪い思いをしながらも、ティビュブロスの目を瞬きもせずに見返した。
 やがてティビュブロスは一度目を伏せ、もう一度オランエに視線を戻した。
「まあ、暫くはこの家にいればいいだろうな。客用の寝室を用意させるから、のんびりしていなさい。そうしてパーラの為に何ができるか考えようじゃないか」
「のんびりなんて、しておれません!」
「のんびりするんだよ。焦っていても良い考えなど浮かばない。のんびりするよう、心がけるんだよ」
オランエは無言でティビュブロスを見、そして視線をそらした。
「ここでもう暫く果物でも食べていなさい。部屋の用意ができたら、案内させよう」

 ティビュブロスは座を立ち、途中下女に幾つか用事を言いつけて、自室に戻った。
「面白い駒が手に入ったじゃないか」
下女に呼ばれて来たラジは、オランエとの会話の内容をすっかり聞くと、口元に浮かぶ笑いをこらえきれなくなった。
「なにが面白いんだ。せっかく隠居できたのに、やっかいごとばかりが舞いこんでくるじゃないか」
「まあ、そう言うなよ。でもいよいよ親父にも、腹をくくってもらわなくちゃならなくなってきたな」
憮然とする父親に、ラジはにやにや笑いを返す。
「やむをえないだろうな」
「まあまあ、そんな顔すんなって。実行役は全て俺がやるんだからさ」
対照的な表情を浮かべた親子は、その後もしばらくは密談を続けた。

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