七つのロータス 第28章 オランエ

 オランエは朝日のぬくもりを肌に感じて、朝が来たことを知った。背中に浅い角度から当たる陽光が、夜の間に冷え切った体を暖めてくれる。広く地を覆う大樹の枝の下で、一晩を瞑想のうちに過ごした。体が暖まりきらぬうちにこの座った姿勢を崩そうとすれば、体中に激痛が走るだろう。薄く目を開ける。大河の水面がかすかな波の起こるごとに輝いて見える。遠くに鳥の声が聞こえるが、周囲はまったく静かであった。
 陽が大樹の枝に繁る葉に遮られるようになる頃、痩せた修行者がゆっくりとした足取りで近づいてきた。在俗の人々の喜捨よりなる朝餉を瞑想者たちに配って歩くのは、限られた日数だけをこの森で過ごす在家の修行者の仕事である。オランエも椀に半分ほどの粥を受け取り、相手に瞑想の成就と魂の平安を祈る言葉を与える。毎日繰り返される儀式だ。
 僅かな時間を食事に費やし、瞑想に戻る。木洩れ日に包まれるような感覚。風の流れと同調する息遣い。肉体の境界の感覚が薄らいでゆく。意識がその入れ物から外側へと滲み出して、いや肉体そのものがゆっくりと空気に溶け出している。自分自身が曖昧になり、それでありながら自分が存在しているのだという確信はかえって高まってゆく。自分が世界の中に溶け込むことは、自分が世界を飲みこむことでもある。目をつぶり視界を遮断することで、世界を捉える感覚はますます鋭敏になる。自分自身が世界の中に沁みこんでいっても、自分自身が薄らいでいくことはない。まるで触手を伸ばしているかのように、世界を感じ取れるようになる。ほら、周囲二十歩の範囲は、もう自分の肉体と変わらない。僕は今、大地と一体となっている。
 たった独りで世界との結合を楽しんでいるオランエの意識に、他者が割りこんできたのは、最も深い瞑想の境地に沈みかけた時だった。
「瞑想者の森では素足と決まっている。履物をはいて立ち入ってはいけない」
オランエの背後、三十歩のところで女が立ち止まった。女が身に纏っている雰囲気は、瞑想者の森に暮らす比丘尼のものではない。だが、自分の知っている人物のような気もする。
ゆっくりと目を開いた。女は背後にいるので、ゆったりとたゆたう大河の水面、そこに群れ遊ぶ鳥たちのほか見えるものはない。女は履物を脱いで、近づいてくる。その足取りは低い生まれのものではない。
 オランエの背中から数歩の距離を残して女は立ち止まった。誰なのかは、その声を聞く前にもうわかっていた。
「兄さま」
懐かしい声。だがこの場所はこのような対面を喜ぶべき場所ではない。
「何をしにきたのだ?瞑想と修行の生活を、軽々しく乱さないでもらいたいのだが」
女はオランエに駆け寄り、身を投げ出すように跪いた。
「兄さま、ご迷惑は承知しています。でも、兄さましか頼れる人はいないの。わたしを、助けて!」
木の根本に座りこんでいるオランエより身を低くして懇願する妹を、薄く開いた目で見下ろす。パーラは記憶にあるよりも成長して、ずっと女らしくなっていた。無理もない、皇宮を出て五年、最後に顔をあわせてからでも二年経っている。
「何があった?」
オランエは口調を変えて、パーラに尋ねた。顔を上げた妹の目には涙が光っていた。
「昨日、陛下がお隠れになりました」
パーラはそう言って、オランエの両目を見上げた。しばらく口をわななかせ、吐き出すように先を続ける。
「ジャイヌが二階から突き落としたのです!」
「そうか」
オランエは先を促した。驚くべき事ではあるが、全く理解できぬ話でもない。
「まだ誰もジャイヌが突き落としたのだとは知りません。でも、わたしはこの目で見てしまったのです」
「誰にも言ってはいないのだね」
パーラは頷く。
「それは賢明だったね。それで?」
「しばらく前から、そのような噂は流れていたのです。陛下に手を焼くジャイヌが陛下を廃位して、もっと都合の良い誰かを皇帝にしようとしていると。そしてその誰かとは、たぶんわたしだと!」
両目から涙が溢れるのと、こらえきれなくなって叫びだすのとが同時だった。
「わたし、皇帝になんかなりたくない!あの人殺しに見張られて、そのうちにきっとわたしも殺されてしまう!」
 オランエは相手の心を思い、ただ待った。パーラが泣き止み、受け答えができそうになるまで待って、口を開いた。
「僕にどうして欲しいというのだ?」
パーラは顔を上げた。
「グプタに戻ってきて。そばにいて」
「今さら皇宮には戻れない。戻ったとして何ができる」
「わからない…。わからないけど、兄さまならきっとわたしを守ってださる。側にいてさえくれれば。そう、信じてる」
オランエは苦笑を押し殺した。深く思い詰めている妹の前で、皮肉な表情ははばかられた。
 またしばらく間を置く。パーラはただじっと、瞑想の姿のまま半眼になった兄の両目に視線を注いでいる。
「パーラ」
オランエは二人の間の地面に視線を落したまま、妹の名を呼んだ。
「髪を切って尼になるといい。剃髪まではしなくていいから。瞑想者の森に入れば、簡単には見つからない。見つかったとしても、僕がグプタに行くよりずっと上手くお前を守ってやれるだろう」
オランエは視線を上げ、穏やかな笑顔を妹に向けた。そこでパーラの驚愕の表情にぶつかった。
「ひどい…」
大きく見開かれた両目に、再び涙が湛えられている。
「酷いかな?この森にも大勢、女性の修行者がいる。事情はあったにせよ、無理やり連れてこられたような人はいないよ」
「わたしは皇女なのよ!そんな人たちと一緒にしないで!」
「それを言うなら、僕だって皇子だ。お前と違って皇帝を実の父に持つわけではないし、皇位継承権も認められはしなかったけれど」
先代の皇帝は、后の連れ子でしかないオランエに皇子の称号を与えた。オランエはその称号にふさわしい扱いを受けて育てられた。妹を見る双眸に、自然と力がこもる。
 パーラはさすがに気圧されたようではあったが、それをごまかすように憤然と立ち上がった。
「もういい!もう兄さまとは話さない!」
オランエは引きとめなかった。小走りに去る妹の気配を感じながら、再び目を閉じ瞑想に戻る。この気持ちは静かな水面に、たまたまできた波紋のようなもの。こうしていればすぐに収まる。そう思いながら。

 チャクリヤナ師は真昼の太陽の下で、小鳥たちと心を通わせていた。地に座りこみ両手を広げた姿勢で身じろぎもしない師の、両腕、両脚そして頭の上に、無数の小鳥たちがとまっている。師の体を覆うほどの小鳥がいながら、ほんのわずかのさえずりも聞こえない。鳥たちがチャクリヤナ師の説法に耳を傾けているのだという話も、まんざら嘘ではないように思える。
「客が来た。お前たちすこし外してくれないか」
師が囁くと、鳥たちは一斉に飛び立った。
「オランエ、どうした?心が乱れているようだぞ」
オランエは無言で近づき、師の前で深々と頭を下げ、跪いてまた頭をさげた。
「教えを乞いにきたのか?」
「はい」
顔を地に近づけたまま答える。
「さきほどパーラさまが姿を見せたが、関連があるのだろう?」
オランエは弾かれるように顔をあげた。師は眼を閉じ両手を膝において、既に最も深い瞑想の境地へ入りこんでいるように見えた。
「師の元へも参ったのですか」
「いや」
おそるおそる尋ねた問いに、即座に言葉が返ってくる。
「遠目にお見かけしただけだ。人目をはばかっておいでのようだったので、あえて声をおかけしたりはしなかった」
二人の間にためらいがちな沈黙が流れた。
「妹は帝が崩御されたという報せを伝えに参ったのです」
「それは痛ましい。まだ幼くていらっしゃったのに。
「それで、皇帝になれとでも言われたのか。ただ伝言の為に皇女が独り、人目を忍んであらわれることもあるまい」
「わたくしには皇位継承権はありません」
オランエは首を振り、パーラとのやり取りを細かに話して聞かせた。
「なるほど」
チャクリヤナ師は頷いた。
「なにも迷うことはないと思うが…。安心させてやりたいのだろう?」
「ですがこの森を離れては、修行に障りとなります」
「苦行や瞑想だけが悟りへ至る道ではないよ。現にお前自身も、貧民への施しや病人の看病にとあちらこちら出歩いているだろう」
「正法に定められた修行です。このような個人的な問題とは話が違います」
「答えが出ているのなら、わたしに何を訊きに来たのだね」
オランエは視線を落した。
「グプタに行く気はありません。ありませんが、妹の身を案じる気持ちが収まらないのです。わたくしには無関係のことと思いながらも、心から追い払うことができません」
「ずいぶんと冷たい言葉だな」
「師のお言葉とは思えません。残してきた家族への執着を断ち切ることは、正法にも定められた悟りへの道です」
師の口元に微笑が広がっていた。
「悟りへの道は一つではないよ」
オランエは身を乗り出した。師が楽しげに語るときは、必ず重要な教えが含まれている。
「師としてお前に命じよう。還俗してグプタの皇宮に帰れ。その上でお前の為すべきと思えることを為せ」
自分が耳にした言葉が信じられず、オランエは無言で師を見つめ続けていた。師は、師はいったい何と言った。修行を止めて出て行けと言った。何故だ!
「わたくしに修行を、悟りを諦めろとおっしゃるのですか!」
チャクリヤナ師は、立ちあがりかけたオランエを手で制した。
「そう気色ばむな。言った筈だ、悟りへの道は一つではないと。グプタに戻り俗界で揉まれて来い。お前に欠けていながら、瞑想者の森では得られぬものが得られる筈だ」
オランエは迷いを払うどころか、十重二十重の迷いに、自分ががんじがらめにされているのを感じた。

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