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世界史 その4 ピラミッドの時代-エジプト初期王朝と古王国ー

 古代エジプトと言えば、ピラミッドだね。スフィンクスやらパピルスやらエジプト神話の神々やらスカラベやらを思い浮かべる人もいるだろうけど、やはり古代エジプトの象徴としては、ピラミッドの印象は段違いに大きいだろうね。世界史の基礎の基礎として覚えておくべきなのは、王墓としての巨大なピラミッドは古王国時代に特有のもので、その後には廃れてしまうということだ。小さいものや、かつての栄華を偲ぶモニュメントとして後世に建てられたものもあるけど、それはルーブル美術館にあるガラスのピラミッドと同じようなものだと言ってしまってもいいかもしれない。
 ここで考えるべきは古代エジプトが統一された紀元前3000年頃からエジプトがアケメネス朝ペルシアによって最終的に征服される紀元前341年まで約2600年以上、あるいはアクティウムの海戦でプトレマイオス朝が崩壊する紀元前31年までを古代エジプトに含めるならおよそ3000年が古代エジプトと呼ばれているというスケールだ。
 よく言われる話にカエサルとクレオパトラが見物した時、既にピラミッドは現代人が見るカエサル時代の遺跡より古かったというものがある。紀元前2世紀に世界七不思議に選ばれたとき、ピラミッドは既に古代遺跡であり観光資源だった。ピラミッドとその時代は、古代エジプトの中でも特に古い時代なのだということは覚えておいて欲しい。

 紀元前3世紀、プトレマイオス朝時代のエジプトでマネトン(マネト)という人が『エジプト史』という本を書いた。神話の時代からアレクサンドロスの征服までのエジプトの歴史を記した書物で、エジプトの王朝を第1王朝から第31王朝までに区分した。シュメールの王名表と同様に実際には並列していた王朝を年代順に並べたりもしているが、王朝の区分を現代の研究者も踏襲している。
 マネトンによれば、最初のファラオはメネスといった。上エジプトの王として下エジプトを征服し、上下エジプトの境界付近にメンフィスの都を建設したとされる。実際のエジプトからの出土物では、ナルメルという王が下エジプトを征服したようで、いろいろな異論もあるけれど基本的にはメネスとナルメルは同一人物という理解で良いと思う。
 ファラオについては高校時代「大きな家」という語義からファラオという回答を求める問題、神官ではなく本人が神として崇められているという内容からファラオと答えさせる問題が出題されたことが記憶に残っている。

 第1王朝のファラオたちはエジプト統一後も積極的に軍事行動を行い、リビア、ヌビア、シナイ半島へと遠征隊を送っている。シナイ半島の銅山を王家の独占としたことは、王権強化に貢献したとみられる。

 第1王朝のファラオはアビュドスとサッカーラという2箇所に墓を建てた。サッカーラの墓は日干し煉瓦で長方形の建築物である「マスタバ」で、これがピラミッドの原型になったらしい。二つの墓所がどのように使い分けられていたのかは不明だが、サッカーラは新都であるメンフィスに近く、アビュドスは第1王朝の元々の本拠地であったティニスに近いと聞くと、色々政治的な妥協の臭いを感じる。

 第1と第2王朝を初期王朝といい、第3王朝からを古王国という。いよいよピラミッドの時代だ。
 第3王朝の第2代ジェセル王と宰相イムヘテプは、ピラミッドの考案者として有名だ。最初は従来長方形だったマスタバを正方形に作ろうとしたらしい。それを積み重ねた階段マスタバ、4段の階段ピラミッドと計画は変更され、最終的に6段の階段ピラミッドとなった。ジェセル王のピラミッドは重なる計画変更のせいで唯一底面が正方形でないピラミッドとなった。
 ピラミッドは日干し煉瓦ではなく、それまで部分的にしか使用されていなかった石灰岩を用いたことでも画期的だった。ピラミッドの周囲には葬祭殿や神殿などの建物が配されピラミッド複合体を形成するが、これらの建物は建築様式的にも装飾的にも煉瓦や木材の建築を模倣しており、石材独自の建築様式がまだ定まっていなかったことがわかるそうだ。

 ジェセル王に続く第3王朝のファラオたちもピラミッドを建設したが、いずれも未完成に終わる。その理由はわかっていない。
 第4王朝の初代ファラオのスネフェルは屈折ピラミッドなど3つもピラミッドを建設している。ピラミッドのデザインは階段状から四角錐となり、ピラミッド建設技術を確立するための試行錯誤が行われていたようだ。
 ピラミッドを宇宙人からもたらされたような超技術の産物としたい人には申し訳ないが、ピラミッドは何世代にもわたる技術の積み重ねによって誕生したわけだ。
 スネフェル王の次のクフ王は、最大のピラミッドの主として有名だ。スネフェル王の試行錯誤により、ピラミッドの技術が頂点に達したのだと言える。ところが短命なファラオを挟んでファラオとなったカフラー王のピラミッドでは早くも石積技術の低下がみられる。個人的には技術が衰えるには早すぎるので、クフ王のピラミッドに使われた技術がオーバースペックと判断された可能性があるのかもしれないなどと素人考えを巡らせている。
 次のメンカウラー王のピラミッドはサイズも小さくなっているが、並べて建てられたクフ・カフラー・メンカウラーの3つのピラミッドが、ギザの3大ピラミッドと呼ばれている。この後もピラミッドの造営は続けられていくが、その規模はクフ、カフラーの大ピラミッドには及ばなくなる。

 ピラミッドは長くエジプトの民衆を奴隷のごとく酷使して建設されたと考えられてきたが、近年では農閑期の公共事業的な性格を持ったものだったという説が主流となっているようだ。
 ただネット掲示板レベルの議論だとよく「ピラミッド公共事業説」の証拠として「二日酔いで欠勤する」などと書かれた出勤簿などが発見されているという人がいて僕も何となく受け入れていたのだが、今回何冊か本を読んで見ると、どうやらそれは古王国の時代ではなく、新王国の時代の王家の谷で働いていた労働者のものらしい。とは言え僕の勉強が不十分なだけかもしれないので、古王国時代にもそのようなものがあったのか、今後も気にしておこうと思う。

 第5、第6王朝にもファラオたちはピラミッドを建設し、官僚機構は整備され、交易ルート確立のための軍事遠征が度々行われた。その影で地方は独立性を強め、中央では官僚機構が肥大化した。
 第7王朝以降はファラオの権威は低下し、もはや古王国時代ではなく「第1中間期」と呼ばれるようになる。これ以降も小さなピラミッドが建設されることはあるが、大ピラミッドの時代は完全に終わりとなる。

トップの画像は、みんなのフォトギャラリーからお借りしました。

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