七つのロータス 第27章 レン

 目を開く。何も見えない。闇。まだ夜は明けていないのだ。ゆっくりと立ち上がり、天幕の端を捲り上げる。青白い月光が天幕の中に流れこみ、反対側の隅で眠る、名も知らぬ娘を照らした。ヴァリィはしばらくそのまま娘を見下ろしていたが、やがて炉の傍らに座りこみ火をおこした。

 娘を起こさぬよう、そっと身を寄せる。左側を下にして眠る娘の足元ににじり寄って火のついた薪で照らすと、やはり酷く膿んでいた。膿汁が包帯の外側まで滲み出している。炎を高く差し上げて見ると、額に汗の滴が幾筋も跡を引きながら滑り落ちて行く。よくこれで眠れるものだ。それとも完全に気を失っているのだろうか。ゆっくり包帯を解き、傷口を露わにする。悪臭が鼻を突き、血と膿が混じった液体が崩れるように流れ落ちた。
「恨むなよ」
娘の両脚を押さえ、膿の溢れる傷に口をつけて思い切り吸った。耳の奥を破らんばかりの悲鳴。ヴァリィを跳ね飛ばそうとする両足をさらに押さえつける。口の中に広がる腐った血の味と臭い。ヴァリィは口の中に溜まった物を吐き出すと、貫かれた足の甲にもう一度口をつけた。娘は悲鳴をあげ、押さえつけられた両脚を振りほどこうと力いっぱい暴れ、ヴァリィの背中を両手で叩く。
 悲鳴を聞きつけて、何人かの男たちが駆けつけてきた。
「何事ですか!」
「怪我人の手当てをしている。暴れないように押さえるのを、手伝ってくれるか?」
娘は半狂乱でヴァリィの背中といわず頭といわず殴り続け、肩に噛みついていた。男たちは三人がかりで娘を族長から引き剥がすと、剥き出しの土の上に押さえつけた。
「やめろおっ!」
娘が獣じみた声で咆哮する。身をよじって暴れるたび、涙と汗に土と髪が絡みつく。
 ヴァリィは足の甲側の傷口から膿と汚れた血を吸い出し終わると、今度は足の裏の傷口へ口をつけた

 左足の傷から膿を吸い出し終わる頃には、娘も暴れ疲れてヴァリィを撥ね飛ばすほどの力は無くなっていた。革袋の水を勢いよく落して傷口を洗った時も、小さな呻き声をあげて身を固くしただけだった。手荒な治療でまた出血の始まった傷口に、分厚く折りたたんだ布を当て、その上から包帯を固く巻く。両肩と両腕両脚を押さえつけられた娘の胸が、荒い呼吸とともに上下している。
 右脚の手当てはずっと楽だった。傷そのものが深くない上に、娘ももう観念したようにされるがままになっていた。
「もう行っていいぞ。助かった」
ヴァリィは男たちを下がらせた。最初に傷口を照らした薪も、炉の火も既に消え、ただ月明かりが天幕の中を照らすばかり。ヴァリィは娘の枕元に座り、娘の顔を覗きこんだ。娘はヴァリィの顔をただ目で追う。乾いた布で顔の汗を拭ってやる間にも、娘は無言でただヴァリィの目を見上げていた。
「これで少しは良くなるだろうが、だからと言って逃げたりするなよ。ここにいるのが一番安全だ」
相手は頷くでもなく、ただ無言でヴァリィの視線を瞬きもしない目で受けとめるだけ。ヴァリィもまた娘を見下ろしたままでいる。娘の肌は月の光と同じ色をしていた。

 目を開くと辺りは明るくなっていた。目の前には、娘が仰向けに横たわって静かな寝息をたてている。座ったまま眠り込んでしまったらしい。背中と腰に痛みを感じる。手を伸ばして娘の額、そして傷のまわりを触れてみるが、どちらも熱はない。一安心して顔に視線を戻すと、娘は目を開いてヴァリィの顔を見てい た。
「起してしまったか、すまない」
相手は無言だが、こちらの言葉を理解していることはなんとなくわかる。
「飯を用意させよう」
ヴァリィは立ち上がり、娘に背を向けた。

 パンと玉葱のスープを持って近づいても、娘は視線を動かすだけで、昨日までのように逃げようとはしなかった。
「農耕民の食い物だ。うまくはないが、食わんと怪我が治らん」
ヴァリィが座って食べ始めるのを待って、娘も食べ物に手を伸ばす。しばらく耳に入るのは、無言で料理を食べる音だけ。ヴァリィは先に食事を終えたが、娘が食べ終わるまでただ座って待った。
「ゆうべ、喋ったな。口がきけないのか、言葉がわからないのかと思っていた」
娘は目の前に置いた木の椀に、目を落して口を開こうとしない。
「せめて名前くらい言う気はないか」
「レン」
目をあげないまま、娘が言った。
「それが名か?」
娘が頷く。
「よし、それだけわかればいい」
笑いがこみ上げてきた。ようやくだ。ここまでずいぶん長くかかった。一月もの間、この娘は悲鳴やうなり声のほか口をきかなかったのである。ただ名前を聞き出す。それだけのために一月。
 ヴァリィは一月前のことを思う。円形に並べられた荷馬車が、天を焦がすばかりに燃え盛っていた。かなわぬと悟った敵、キュイ族という名の遊牧民たちが、自分たちの全財産を灰に変えようとしたのだ。ヴァリィたちは為すすべもなく見守るしかなかった。自分たちが奪うはずの戦利品。保存用の食糧や酒、毛皮に毛織物、日用品の類いがみんな駄目になってゆく。燃えさかる輪の中央には、自ら命を断った女たちの骸が無数に折り重なっているのが炎の帳をすかして見える。ヴァリィは目を逸らすこともできずに、ただ馬上からその光景を見つめていた。男がいくさで死ぬのは世の理というもの。だが女こどもが死ぬことはない。いつしか死んだ女たちの衣服にも火が燃え移り、百人あまりの遺体は炎の中に飲みこまれてゆく。

 ヴァリィは馬を走らせた。心の中に生まれた嫌な思いを消し去るには、地平線の彼方までただひたすら馬を駆る。それに優る方法はない。砂丘のひとつを登りきったところで、一団のひとの群れを見つけた。キュイ族が逃がした家畜を駆り集めさせるために出した斥候隊、それと泣きわめいている若い女。
 ヴァリィは一息に砂丘を駆け下りた。
「何をしている」
五人の男がいっせいに振り向いた。女は二人の男に両脇を支えられ、半ば吊り下げられるようにして立っている。
「敵の女の生き残りを見つけたんでさあ」
斥候隊の隊長が笑いながら答えた。こいつ、名は何といったか?
「そうか、なら俺が野営地まで連れて行こう。お前たちは自分の仕事に戻れ」
「待って下さいよ。一人じめするつもりですか?」
相手の言葉に、苛立ちが湧き上がった。
「愚かなことを!敵の女を捕らえた時には、丁重に扱うのが我らのならわしだ」
「そりゃドゥルランダの考えと違いますぜ」
斥候隊の隊長は叫び、緊張した笑みを顔に貼りつけたまま族長を睨み返した。他の男たちも引きつった笑い顔で、遠巻きに二人のやり取りを見守っている。
「ドゥルランダの考えは、ムラト支族が長年守ってきたしきたりより大事か」
この連中の睾丸が今どうなっているのか、顔を見ただけでわかる。胸の中の軽蔑を押さえる気もおこらない。
「ドゥルランダはハラート全体を束ねる大首長じゃねえか。ドゥルランダは敵の家畜と女は奪え、水、酒、食い物は腹に収めろ、草原の民に不似合いな物は地にうち捨てておけと言ってんだ。ハラート全部が従わなきゃなんねぇ筈だろ」
斥候隊長が金切り声をあげてもまるで無視して、ヴァリィは相手の目を睨み据えたまま笑って見せた。その表情が安堵よりも、より強い畏れをもたらすのは承知の上だ。
「俺はドゥルランダと戦って降参したわけじゃない。一から百まで奴の言うことを聞く気はない」
男の目が泳いだ。もはや目をあわせていられないのだ。
 ヴァリィは愉快な心持になって、さらに相手を追詰める。鼻先と鼻先が触れ合わんばかり。
「ははーん、お前、こう思っているな。こいつはドゥルランダに逆らおうとしている。こいつを殺しても、ドゥルランダには申し訳がたつだろう。いや、それどころか大手柄だ。さっさとうるさい族長なんか殺して、この女で楽しもうじゃないか」
斥候隊長は震えだした。怒りや憤りではなく恐怖からだ。ますます愉快になってゆく気分を押さえることができない。
 斥候隊長の表情が歪んだ。その瞬間、ヴァリィの剣が唸った。鞘を払う動作のままに切りつけられ、斥候隊長は腕を押さえてうずくまった。斥候隊長の剣は手から離れ、地に引かれるまま再び鞘の中に収まる。血の流れが隊長の右腕を染め、大地に滴り落ちた。悲鳴をあげることも忘れ、勢い良く鮮血を噴出す傷口に見入っている隊長の頭に青銅の刃を振り下ろすと、全ては終わった。
「どうした、早く自分の持ち場に戻れ」
残る四人にはそう言うだけで良かった。

 まるで地面に放り出されるようにして解放された娘に手を差し伸べてから一月。その直後、右腕の肉をひとかけら食いちぎられるかと思うほど、噛みつかれてから一月。ようやくおとなしくなった娘は、じっと座ったまま所在なげに天幕の隙間から見える外の様子を眺めている。一月のあいだにこの娘の歯や爪でつけられた無数の傷を思う。押さえきれないような笑いがこみ上げてきた。

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