テキサス大学唯一の1巡目指名だった選手
テキサス大学はバスケットボールスクールとしての歴史は浅い
ラセール・トンプソン(1982年1巡目5位)は長らくテキサス大学唯一のNBAドラフト1巡目選手だった。
テキサス大学はケビン・デュラントやラマーカス・オルドリッジをはじめ数多くのスター選手を輩出しているパワーハウスだ。特に最近ではジャクソン・ヘイズ(2019年1巡目10位)、モー・バンバ(2018年1巡目6位)、ジャレット・アレン(2017年1巡目22位)、マイルズ・ターナー(2015年1巡目11位)がワン&ダンでNBA入りし、パワーハウスぶりは増加の一途を辿っている。
しかし、テキサス大学はケンタッキー大学、ノースカロライナ大学、UCLAのように昔からバスケットボールの強豪校だった訳では無い。確かにテキサス大学は1940年代に2度のファイナル4進出を達成しているが、実はそれ以降は1980年代後半になるまで約40年間バスケットボールには注力していなかった。
バスケットボールに注力していなかった理由
最大の理由はテキサスがフットボール州だからだ。しかも、テキサス大学は当時からテキサス州のフットボールの象徴的存在だった。だから、誰もテキサス大学にバスケットボールの強さを求めていなかったのだ。
一方、テキサス州内にバスケットボールスクールが既に存在していたことも要因の1つとなった。
1960年代、テキサス州内で2つの大学がバスケットボールで大成功を収めていた。1校は映画グローリーロードのテキサスウェスタン大学(現テキサス大学エルパッソ校)だ。当時、アメリカの保守的な地域の大学は黒人選手を一切リクルートしなかった(厳密に言えば、そもそも黒人学生が大学に入学することさえ許されていなかった)のだが、テキサスウェスタン大学はそこに目を付けて他大学がリクルートしなかった黒人アスリートを次々と呼び込み、1966年にNCAAトーナメント制覇を成し遂げたのだ。
もう1つがヒューストン大学である。当時、1960~70年代はUCLAが20年弱の間に10度の全米制覇を成し遂げる大王朝時代だったのだが、ヒューストン大学は黒人選手のリクルートで着々と部の強化に成功し、1968年には世紀の一戦(Game of The Century)と呼ばれる試合で5万人以上の観衆とテレビ中継の前でカリーム・アブドゥル-ジャバー擁するUCLAから勝利を挙げ、”バスケ不毛の地”テキサス州でバスケ人気に火を付け、1970年代後半以降はクライド・ドレクスラーら世紀の一戦を見て育ったテキサス州の子ども達がこぞってヒューストン大学に入学し、その後はファイ・スラマ・ジャマ(Phi Slama Jama)の愛称で親しまれ、テキサス州のバスケットボールスクールの名をほしいままにしていた。
その結果、テキサス大学は長らくバスケットボールに注力することができずにいたのだ。
好機到来
しかし、1980年代後半、ヒューストン大学が主力選手のNBA入りとキャンパス内のトラブルで衰退し、テキサス大学はバスケットボールに注力する好機を得た。
1988年、トミー・ペンダース(Tommy Penders)がHCに就任し、10年間で3名のNBAドラフト1巡目指名選手の輩出と8度のNCAAトーナメント出場に導き、テキサス大学は見事バスケットボールも強いことを世間に印象付けることに成功した。
そして、1998年、リック・バーンズ(Rick Barnes)がペンダースに代わってHCに就任した。最初の3シーズンこそ平凡だったが、2001年にESPN第10位のTJ・フォードのリクルートで風向きが変わった。以降、テキサス大学にはラマーカス・オルドリッジやケビン・デュラントといったスーパースターが次々と加入するようになり、現在のパワーハウスの原型が完成した。
長らく唯一の1巡目指名だった選手
ラセール・トンプソン(1982年1巡目5位)はしばしの間テキサス大学唯一のNBAドラフト1巡目選手だった。
トンプソンはセンターとしてテキサス大学のインサイドを支えた後、1982年1巡目5位でカンザスシティ・キングス(現サクラメント・キングス)から指名を受け、指名時の期待こそ応えられなかったものの、NBAで15シーズンもサバイブし、合計985試合に出場した。
ちなみに、テキサス大学史上2人目の1巡目指名選手は1990年1巡目26位で指名されたランス・ブランクスである。
参考
Texas Longhorns School History(sports-reference.com)
Texas Players In The NBA(basketball.realgm.com)
Phi Slama Jama(espnplayer.com)
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