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ソーシャルネットワーク | 2024-09-12

あれから5ヶ月が経過し、あれやこれやを経て再びnoteを書く事ができるようになりました。あれ、というのは4月にあった事件のことであり、それは衝動的で、またその半年前の11月にも試みたことを考えると自分の中に根強く残っている念慮なのだという気がします。今は幸いにしてそういった希死念慮とは距離を置きつつ、社会への復帰を図っているところで、noteを書くという行為もまたリハビリテーションの一つだと考えており、また週次くらいで更新できれば良いなと思っているところです。
4月に何があったのか、あるいは起こらなかったのかということは以前の配信で話していることもあり、ここで繰り返すことはしないのですが、実際のところ何がどうだったのか、ということをお知りになりたいという奇特な方がいらっしゃる場合には個別にお応えしていきますので、ご連絡ください。

この5ヶ月は仕事というか国民の義務であるお勤めをしておらず、また本を読むのもままならず、ましてやクラブに踊りに行くこともできなかったわけですが、世捨て人になるという選択肢もあった中で何とか社会復帰の道筋が見えてきたというのは本当にありがたい話だなと思います。ブランクや転職を繰り返すという悪癖にも関わらず採用してみようという企業があるというのは、やはりIT人材の不足という需給ギャップに寄るところが大きいのではないかと考えられますし、その中でも経営の言葉を翻訳しつつ現場の使うITに落とし込んでいくという職位がいま求められているということでもあるのかな、というのが転職活動を通して感じたことです。

精神的に不安定な状態を心配している家族からは、もうしばらく本を買うのを止めてくれと言われており、仕方がないので図書館の利用者カードを作りました。これまでは本というのは予約して購入するものだという認識だったのですが、この間に、Amazonのカートに入れて寝かせておくうちに書店で立ち読みができるようになったり、場合によっては図書館で借りて読むこともできるようになるのだということを学習しました。もちろん家に既にある積読も少しではありますが解消しており、不本意ながら本は買うことも大事だがたまには読んだ方がいいということを認識したわけです。

気分の落ち込みや人生の転機となるような出来事を経ると人間は自ずと幸福について考えるようになります。これまでの人生の良かったこと、悪かったこと、これからの人生が幸福であるためには何が必要なのか、といったとりとめもない事を考えては一喜一憂するものです。大体において鬱病の患者というのは内向的というか社交性が低く、知能が決して高いわけでもないのに非常に内省的だったりします。下手な考え休むに似たりという慣用句がありますが、多くの鬱病患者の内省というのも負のスパイラルと言われるように出口の見えない考えに追い立てられて同じようなことをグルグルと考え続けていたりするものです。ここから抜け出すために必要なのは筋トレではなく、判断の保留や、外部性の導入だったりします。ようは一人で考えていても埒が明かないので、外に目を向けてみるということです。まあそれが気軽にできるようであれば苦労はないわけですが、そうは言っても生きていくという選択をするのであればそうした試みをしていかざるを得ないということなのでしょう。幸福な生活を営むための試行錯誤というのは他の誰のためでもなく、自分のためにやらなければならないわけで、自分の幸福について責任を持てないのであれば、家族や友人、コミュニテイの面々といった周囲の人にまでその影響を広げていくことも難しいのではないでしょうか。哲学の大きな目的の一つは真理の探求ですが、幸福に生きるためにはどうすればいいのか、ということもまた、哲学者の探求してきたテーマの一つであり、不幸な豚であるのはやめようというのがその教えだったりもします。

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