神様が創造された万物に対して、私たちはどのように扱われば神様の心に適うのでしょうか

    生物に対する人の好みがそれぞれ違うので、人の評価、意見もそれぞれ違います。ある人は獰猛な獅子、虎が好きです。獅子、虎は横暴な気質とたくましい体を持っているからです。ある人は蝶が好きです。蝶の姿は美しくてたおやかだからです。ある人は小犬が好きです。子犬の飼い主に対する忠誠は立派だからです。ある人は象が好きです。熱帯森林の中で、象の生命力が最も強いからです。またある人はシマウマのおとなしさと、シマウマの、白黒の縞模様の皮が好きですそれらを嫌わないでください

     だが、どの人も自分の嫌う生物があります。人は心の中で自分の嫌う生物を非常に嫌がり、このような生物が早く消えるとさえ望んでいます。「クソムシ」を例にあげましょう。クソムシは毎日糞の中を転げ回っています。わたしたちはそれを見ると、いやな気持になり、それを遠く離れます。だから、わたしたちはそれが存在しないとさえ望んでます。もちろん、「クソムシ」はただ人に嫌われている生物の一つです。億万の生物の中で、人の嫌うものが多くあります。人の好み、審美感がそれぞれ違うので、もちろんさまざまな生物に対する人の態度もそれぞれ違います。しかも人が異なれば、人の嫌う生物も異なります。

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     先日は真夏であり、ちょうどトウネズミモチの花が満開の時でした。木陰で深く呼吸すると、芳しい香りが体のすみずみまでしみいりました。窓を開けると、微風に吹かれているトウネズミモチの花の香りは窓に張る紗を通して室内に漂ってきました。その淡い香りが時々鼻をつきました。こういう時、部屋の中は鳥鳴き花香る世界のようでした。……トウネズミモチの花はすばらしいですが、わたしにアレルギー反応を引き起こします。わたしもトウネズミモチの花のわたしに対する「挑発」を避けたいですが、でもわたしの家の周りにはトウネズミモチの花がたくさんあります。トウネズミモチの木の下を通ると、わたしの体がかゆくなります。しばらしくてから、首、手、背中に大小不ぞろいのできものができます。時がたつうちに、わたしはトウネズミモチの花を嫌うようになります。そのため、「ああ、この木は本当にいやです。存在しなかったらどんなによいだろう」と文句を言います。

      その後、私は『創造主の権威のもとでは、万物が完璧である』というタイトルの文章に一段落の言葉を読みました。「鳥や魚、木や花、神により造られた物は、移動する物と移動しない物を含め、第六の日に造った家畜や昆虫や、野生動物を含め、すべて神にとって良いものであり、また神から見て、神の計画によれば完璧に達しており、神が望む基準を満たしていた。⋯⋯神が造り出すことを意図していた物が次々と生まれ、そうした物の出現は創造主の権威の反映であり、結晶化であった。また、こうした結晶化のために、あらゆる生物は、創造主の恵みと施しに対する感謝の念を感じずにはいられなかった。⋯⋯時として、極めて醜い昆虫を見て「酷い虫だ。こんな醜い虫が神に造られたはずがない。神がこんな醜いものを造るなどあり得ない。」などと言う人がいるが、極めて愚かな考えである。むしろ次のように言うべきである。「この虫は極めて醜いが、神が造った虫なのだから、この虫にしかない目的があるはずだ。」神の考えにおいては、神が創造した生物すべてに、様々な外観と機能と目的を授けられる意向であったので、創造された生物は、決して紋切り形ではない。創造された生物は、外観や内部構造、生活習慣や棲息地に至るまで、それぞれ異なるものである。牛には牛の、ロバにはロバの、鹿には鹿の、象には象の外観がある。最も外観が美しい生物はこれ、最も醜い生物はこれ、などと言えるだろうか。最も役立つ生物はこれ、最も必要性が低い生物はこれ、などと言えるだろうか。一部の人々は、象の外観を好むが、象を使って農地に植え付けを行う者はいない。全ての生物の中で最も外観が印象的なライオンやトラの外観を好む者もいるが、ライオンやトラをペットとして飼育できるだろうか。要するに、万物について、人間は創造主の権威に従順する、すなわち万物の創造主が定めた秩序を優先する必要がある。これが最も賢明な姿勢である。創造主の権威を真に受け容れ、確信するには、創造主の元来の意図を求め、それに従うことによるほかない。神は万物を良しとしているのだから、なぜ人間は万物に欠点を見出す必要があるというのか。」

      実は、どの生物も神に造られたのです。神はいと高き神、全能の神であり、知恵に満ちています。彼の造ったあらゆる生物の外観、構造、習性はぞれぞれ違うのです。どの生物の存在も造物主の権威を表現し、造物主の力を表しています。造物主の権威の下にあるすべての生物は、造物主の定めた環境の中で、造物主の定めた法則に従って生きており、しかもさまざまな方式によって造物主に真心をこめた感謝と賛美をささげています。わたしはここまで考えて、かなりはっきり分かりました。こうして見れば、神が万物を造るということの中に神の知恵があり、またわたしたちに理解できない意義があります。そういうわけで、神の目には万物が完璧です。それでは、わたしはどうしてあら捜しをすることができるでしょうか。だから、わたしたちは神の造った万物を正確に扱い、神の権威、神の支配に従うべきです。

      わたしはある説教者がこう言うのを聞きました。「造物主の造った万物は神の目によいのだと神は言われた。この言葉はわたしたちがどう解釈すればいいのか。神が万物は神の目によいのだと言った以上、神が万物を造るということの中にきっと神の知恵がある。万物は神の権威、神の全能を表しているのだ。それなら、人はまだ自分の意志や観念、想像によって神の造った万物を扱うのか。(いいえ)。万物と人の矛盾、関係を解決するには、人類は万物を通して神の権威を認識しなければならず、また神の権威に従わなければならない。そうすれば、人と万物は協調的に共存することができる」。

      これらを聞いた後、わたしはこう思っていました。わたしの最も嫌うトウネズミモチの花がわたしの体に不快感を与えたけれど、でもトウネズミモチの花が咲くことは、それが造物主から与えられる命に感謝し、造物主から与えられる命を賛美することを表している、トウネズミモチ自体は独特の価値がある、トウネズミモチの実が人の病気を治し、人を救う薬になれるからだ、トウネズミモチも人類のために貢献しているのだ、と。これで分かりますが、造物主がトウネズミモチを造ることの意義は、わたしが計り知ることができません。なぜわたしがトウネズミモチの木が存在しないことを望むのかというと、それがわたしの体を傷つけ、わたしの利益を損ねたからです。したがって、わたしは神がそれに与えられたそれの存在の価値と意義を否定してしまいました。

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     わたしたちの嫌っている「クソムシ」の場合もそうです。わたしたちはクソムシが糞の中を転げ回っているのを見ると、いやな気持になります。だが、クソムシが存在しなければ、わたしたちの生活ゴミ、廃物と動物の糞便は消化され、処理されて泥と化し、消えることがなくなります。これで分かるように、このような小さな動物は醜くて、わたしの目に卑しい「仕事」をしているが、造物主の支配の下で自分の機能をし、人類の生存環境のためにゴミを取り除きます。

     わたしたちはいつも自分の見方によって神の造ったあらゆる生物を評価します。だから、わたしたちは美しくて、自分に役に立つものはよいもの、存在すべきものであり、わたしたちの目に悪いもの、わたしたちに不便を与え、わたしたちを傷つけるものは地球から消えるべきだと思っています。わたしたちのこのような考え方はどんなに偏狭で無知なのだろう、とわたしは今は感じています。神は全能であり、知恵に満ちています。神の造った万物は完璧です!

      神の造った万物はそれぞれ自分の姿があり、それぞれ自分の法則に従っています。わたしたち人類がどのように扱い、評価しても、神の目にはよいのです。どのものの存在も価値、意義があります。わたしたちが見、接触したすべてのもの、およびわたしたちが見たことのないすべての生物は、造物主の定めた命の道程を歩み、造物主の定めた法則に従って共生し、相克し、また互いに依存します。しかも、万物は造物主の支配と按配に従っていて、今まで自分の本能を超越したことがありません。だから、造られた人類としてのわたしたちは造物主の造った万物に従い、造物主の造った万物を受け入れ、万物を造られた造物主の権威、知恵、霊妙さを体験すべきであり、また神の造った万物の霊妙さのゆえに心から神に感謝し、神を賛美すべきです!


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