「老いる」価値の陳腐化及び価値の市場原理における暴落についての一考察


昔は貴重だった「老人」の「知恵と経験」


まんが日本昔ばなし 姥捨て山


とある国の寒村に住む親孝行の息子が国の掟の「還暦超えたお年寄りは姥捨て」に逆らって、年老いた母親を匿う。
その頃、とある国は隣国の殿様の無茶振りで悩まされていたが、その無理難題を年老いた母親は年寄りの知恵で次々と解決していく。
愚かさを悟った殿様は姥捨ての掟を取り消し、親子は褒美を貰い末永く幸せに暮らしましたとさ。

…という多くの日本人が知っているだろうこの昔話は色々と示唆に飛んでいる。
昔の日本の寒村は余剰人員を食わせるだけの農業生産性の余裕がなかった、という暗黒の現実。
そこには儒教思想的忠孝という武士階級の価値観は現実の前では無力だった事。
その中で希少な経験と知識に富んだ老人を大切にしよう、必ず良いことがあるよという話。

昔ばなしとしてはハッピーエンドでめでたしめでたしなのだが、悲しむべき現実として、現代日本社会ではこの構図は必ずしも合致しない。
それどころか反転しつつある。

不都合な現実その1「経験知の陳腐化」

現代日本では人生のベテランに対する扱いが酷い。
それは特に60〜70代の、日本が日の出の勢いで大国化していく果実を存分に味わった戦後生まれの年寄りたちの経験知が役に立たない状況になったからだ。

というより、技術が経験知を無用にするくらいに進歩しているとでも言うべきだろう。
真空管はトランジスタに置き換わり、ブラウン管は今や液晶や有機LEDへと進化し、木造家屋に必須だったキザミの技術はプレカット工法に取って代わられ、インターネットは電話回線から長い接続線からWi-fi無線化、癌手術も開腹切除だったのが重粒子線治療メインへ、知らない事もGoogleで検索、あるいはSNSで聞く…。

確かに、科学技術の進歩は偉大である。
だが、その歩みに付随するのを放棄したらどうなるのか?


不都合な現実その2「昔は良かった、けど今は?」

高齢者側も経験知伝授の努力はしている、というのは言っておきたい。
但し、伝授する話には高確率で「昔の高待遇」の話も付随する。
そして往々にして、低賃金と高い労働強度で働く若者から反感を受ける。

それに、彼らの成功体験の大半は「人件費のかかる日本から中国へビジネスの中心を移動させた」「リストラに成功して経費削減に成功した」「工数を減らして予算を減らした」「労働強度を上げて効率化に成功した」などといった、中年層以下を苦しめるものばかりなのだから、聞かされる側からすれば反感を持つのは当たり前だろう。


不都合な現実その3「因果応報の段取り」

よく「失われた20年」という言い方がされるが、あれは経済政策的大失敗と共に、日本の人口政策の敗北という側面もある。

そして到来する、寒い時代。

偶然なのか必然なのか、「たまたま景気が悪かった時期」に「通常の世代人口より多い世代」が一斉に就活をやった結果がこのザマである。
人生の先輩に当たる彼らの当時の悲惨さはよく覚えている。そして私は、「社会に出る恐怖感」「労働の恐怖」を否応なしに植え付けられた。
「お前の代わりはいくらでもいる」とばかりに彼らは消耗品扱いされた原因の一つは、世代人口の多さだろう。
労働力としての就職氷河期世代は世代人口の多さ故に存在価値の暴落を招き、労働力を買い叩かれたのだ。
そして、彼らの暴落した労働力を主に買い叩き、恩恵を受けたのが今は60〜70代の戦後生まれの高齢者たちだった。

その事が因果応報になるとは…。


不都合な現実その4「人口が多い≒価値の暴落」

どちらも総務省統計局による、現在の日本の歪な人口ピラミッドである。
昨今の「SDGs」「持続可能性のある社会」という掛け声も、このグラフを目にすると「それって貴方の願望ですよね?」という、某タラコ唇が言いそうなレベルで悲惨な事になっている。

と同時に、「持続可能性のある社会」という口実の下、人口ピラミッドの出っ張りの部分が「持続可能性がない」として白眼視される風潮になりつつある。

かつて、「お前の代わりはいくらでもいる」と消耗品扱いとして労働力を買い叩かれた就職氷河期世代。
彼らは世代人口が多かったばかりにかのような憂き目にあったのだが、労働力を買い叩いて恩恵を受けてきた60〜70代の戦後生まれの高齢者たちにも同じ事が起ころうとしている。

世代人口が多かったばかりに消耗品同然に扱われ死ぬまでその境遇が確定しつつある就職氷河期世代同様に、世代人口が多い60〜70代の戦後生まれの高齢者たち(特に全共闘世代)が「老いの価値」を暴落させつつある。

その一形態が「無駄の削減」を訴える日本維新の会に対するミドル世代のアッパーミドルクラス以上の支持率の高さであり、支持者が高齢層に寄っている立憲民主党や社民党や共産党に対する怨念じみた憎悪であろう。

「今の日本は余剰人員を食わせるだけの生産性の余裕がない」
「リベラル思想とかいう現代版上流階級の価値観は現実の生活の前では無力どころか有害」
「ググれば済む陳腐化した知識ばかりしか持たず、ことあるごとに昔の高待遇を自慢する高齢者の話は聞いても不快になるだけ」

今や先進国クラブの貧乏な田舎の寒村となりつつある日本は以上の様な言説がまかり通っている有様である。
「いやいや、君達もいずれは高齢者になるんだよ?その時困るのは自分たちじゃないか」と諫める声もあるにはあるのだが、自らの価値を低く評価され続けた彼らは聞く耳を持たない。

「低賃金で身体が動かなくなるまで働かされ、ポイ捨てされる俺達に老後はない」
「畳のシミに、無縁仏になる覚悟は出来ている」
「こんなクソッタレな社会を維持するインセンティブはない」

我が国はこれから軽老社会という名前の、全人口における比率が大きい高齢者の価値が大暴落する時代を迎えるのだ。


因果を超える事はできるのか?

おそらく、この復讐の輪廻は止まりそうにない。
何故なら、彼らを追い詰めるロジックの大部分は、彼らが現役の頃にせっせと作り上げた風潮であり世論であり民意だからだ。

気付かずに首を吊る為の縄を綯い、刃物を研いでいた彼らを愚かと嗤う事なかれ。我々とて自覚のあるなしに関わらず、首を吊る為の縄を綯い、刃物を研いでいるのだ。

その中で色々な技術が進歩するのだから。

(人口ピラミッド的には、この流れは二度目の山が解消されるまでは止まらないでしょうね。その後にやっと日本の『ポスト冷戦後』は始まるでしょうから。)

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