律動する指先
つくづく自分は、人間に興味がないんだなと思わされます。
noteもツイートもそうだけど、人に見られる前提で作るコンテンツは概していい子ちゃんになる。
中途半端に評価されたい欲があったり、すごいと思われなきゃという固定観念があったりする。
はたまた、この世のトレンドに乗じた発信もすこぶるダメ。
もっぱら、自分だけの世界で、独り言のように好き勝手やることしか性に合わないんだろうなと思う。
#001 や #002 の記事に書いたことに嘘や偽りはないけれども、
でもかなり記事作成に労力かかったし、その割にクオリティはなぁ…という感じ。
あとは、実は幻の#003を作ってたんだけど、
後から自分で見返して気持ち悪すぎてお蔵になりました。
人生もっと真剣に生きなきゃダメだよね!
みたいなお説教を4000字くらいつらつらと書き連ねたゴミが出来上がったので、
しかるべきゴミ箱に捨てました。
いやもうほんとに、人に向けて書くのが下手すぎる。
というか、そっちにエネルギーが向かないのです。
そういう伝え方よりは、
自分という内世界にのめり込みすぎて、
その内世界の出来事が外側に溢れ出ちゃったみたいな、そんな発信が向いているんだろうなと思います。
資本主義に順応しようとすると、どうしてもマーケットイン(すでにある市場に合わせて商品を作る、つまり人によく思われるようなものを作る)的になりがち。
でも、本当に好きなことをやってる人って、そんな資本主義とか金儲けとかどこ吹く風だと思うんですよね。
割と息の長いYouTuberって、結構これが当てはまっている気がする。
YouTubeを始めたきっかけは置いておいても、動画作るのが好きだからとか、仲間と楽しいことやるのが好きだからとか、そういう熱量が根底にあるように思う。
こんなに楽しいことをしているから、その楽しさをみんなにもお裾分けする、っていうそんなイメージ。
かたや、広告収入目的だったり再生数に取り憑かれてしまったYouTuberは、
視聴者に求められているものを嫌々やってみたり、再生が回らなかったらいくら楽しくても効率主義的に排除してしまったり。
そういうYouTuberは、おそらく短命なはず。
まさにこの記事も、
誰が見るんだみたいな記事の内容してますが、、それでいい。
全然、それでいい。
ただ優等生的に体裁だけ整えた記事よりは、
文章に熱が載るし、リズムができるし、何より描いている自分自身がとっても楽。
自分に本当に合っているなと思わされる。
これだけSNSだとかで世界との距離が近くなった今、
つまり世界中の人々や出来事と隣人になってしまった今、
ちゃんと意識的に「1人になる」「1人の世界に入る」ということをしない限り、
すぐ世間の流れに流されちゃうと思うんですよ。
すぐ滝沢ガレソのバズツイートをチェックして、
世間を賑やかせている炎上企業のニュースを見て悦に浸って
好きなアーティストの一挙手一投足が気になって毎日アカウントをチェックする。
トレンドに脳のリソースを割かれ、
日々の悪習慣によって貴重な可処分時間を消費し、
自分はあたかも神様目線でも持っているかのような視点で世界を俯瞰したように錯覚し、
自分自身の現実からは逃げて逃げてこれっぽちも動かそうとしない、、
みたいな。
なんかこれ、成田ゆうすけさんが言ってそうな言い回しですね。
まあこれ、紛れもない僕の毎日なんですけどね。
だからこそ、意識的に「1人の世界に入る」。
そして、「1人の世界を外界に溢れさす」。
その一歩が、人目を気にしないで文章を書く。
けど世間には公開する。
というこのnote投稿なのかなと思っています。
この記事の文字数は1500文字程度とのことですが、
多分10〜15分かそこらでここまで書いているはず。
いつもウンウン言いながら記事やツイートを考えている時と比べたら、
何倍のスピードなんでしょうかね。
コンテンツって時間をかければかけるほど良くなるものもあれば、
そんなことないもの、むしろリズミカルにぱぱっと作り上げたもののほうが、無駄に時間を使ったものより熱が載るものもあるんじゃないかなと、
思ったというか、今実際に体感しています。
構成も考えず、推敲もせず、
ただ文章の進む道に身を委ねている感覚。
とっても楽しい。
明け方近くの深夜って、
なんでこういう、衝動的な発散をしたくなるんでしょうね。
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