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ポスターにいるおジャ魔女が一切出てこない映画の話。

はじめに

 ハズレ映画に2時間盗まれたというのはよくある話だ。映画の日や1100円で見てなお、ダメージが少なくて良かったと思うよりも、失われた2時間を思うダメージのほうが大きい。ハズレ映画の爆発力というものは、精神をゴリゴリと削ってくれる。よくある話だが、未だに耐性はついていない。ワクチンがあれば自費でも打ちに行きたいものだ。

「あの映画、テレビでやるんだって。録画するからいっしょに見ない?」と尋ねられた。前売り券を買うほど前のめりになって映画館で見た、ハズレ映画『魔女見習いをさがして』だった。

 どこらへんがハズレかと言われれば、見た人にとっては単純な話だ。

 ポスターで語られたイメージはまったくの虚構で、目に見える期待値だったおジャ魔女要素は映画に一切なく、昔おジャ魔女どれみを見ていた人が出てくるだけの映画だった。

 このポスターをして、おジャ魔女どれみ要素は一切ない。マジョリカを含めて10人の人間が描かれている中で、出てくるのは見慣れないオリジナルの3人だけだった。

 さすがにうなった。仮にこれをしておジャ魔女どれみの映画作品ですと言い切れる評価軸を持ち出すなら、シン・ゴジラはマフィア梶田の映画作品と言っても無理がなくなってしまう。この作品におけるおジャ魔女要素に比べれば、シン・ゴジラにおけるマフィア梶田要素のほうがはるかに濃い。

 開始5分で昔おジャ魔女どれみを見ていた人が登場し、「あー、ハズレだわ」と直感した。前売り券を買うほど前のめりだった期待感は一瞬で冷め、映画作品としてのクオリティもまた、面白いという感想を呼び起こすほどではなかった。

 2つの意味でボコボコにされた2時間だった。アニメ映画を見て2時間損したと感じた記憶はほぼない。トイ・ストーリー4でも人によるかなと感じた程度で、これほどの衝撃はなかった。

映画の話・オタク編

 オタクとしての観点で言えば、求めていたのはこっちの世界の話ではない、というものだ。

 欲しかったのはあくまであっちの世界の話だ。百歩譲って小説版の16以降が地続きになった世界の話でも良かった。仮にこっちの世界の話ですという情報を知っていれば、おそらく見た人の感想を待ち、そして騙されずに済んでよかったと思うだろう。

 もっともどういう話の作品かと下調べをしなかったほうが悪い、と言われればそれまでかもしれない。ただぼくはそういう映画の見方はしない。なんの前情報も持たず、大画面のスクリーンを通して映画と一対一になる。それだけの話だ。公開前にこれはアニメおジャ魔女どれみの登場人物が一切出てこない、おジャ魔女どれみを見ていた人達によるこちら側の話ですという情報が出回っていたのであれば教えてほしい。

 とにかく看板と中身の不一致が激しすぎた。詐欺的だと言われても仕方のない作りだった。同時上映のトトロやハム太郎を期待して、火垂るの墓やゴジラだけ放映して終わるような作品だ。騙されたという人が出るのも無理はない。どんな論法をもってしても、この騙されたという感想を覆すことは不可能だろう。

 Not For Me. とは、便利な言葉だ。あの釣り書きをしておジャ魔女どれみを期待して見る作品ではなかった。それだけの話なのかもしれない。

映画の話・映画編

 そもそも、映画単体として面白くなかった。ストーリーは古典的と言えば聞こえが良いが、物語としての一貫性がなく、作中で描こうとした社会性に対する強かさについても、あまりに都合の良い展開が過ぎた。

 小学校の教育実習生(新人教員だったかもしれない)と絵描きになりたいフリーター、OLの女性三人織りなす群像劇だが、どれもパンチが弱い。

 教育実習生の立場はまあわかる。どのクラスにも一人はいた、自分の世界を強く持っている生徒とうまくやりとりが出来ない、というベタな話だ。これは様々な立場に置き換えることが出来る。会社でも家庭でも、あるいは友人グループ関係でも、ほんの僅かなズレとジレンマを感じることはあるだろう。そしてそれを解決することの難しさも、よくある話だ。

 最終的に彼女の願いは叶う。願いと言うよりも、本当にやりたかったことが教員でないことがわかり、新たな目標へ向けて一歩前に進む。

 絵描きになりたいフリーターの話は、さっぱりわからなかった。彼女にはボーイフレンドがいて、彼はミュージシャンを志しているだけのいわゆるヒモだ。ただその点に関しては彼女も同様だ。絵描きを志しているという動機があるだけの存在で、作中でさまざまな出来事といきさつは語られるが、そのどれもが絵描きになるための具体的な行動を起こさないことへの言い訳でしかなかった。

 そして二言目にはお決まりの、「私みたいなやつ、やったって仕方ないよ」だ。おジャ魔女どれみで通過した話をまたぶり返すのは非常にナンセンスであり、そうでなくとも、21世紀に作られるアニメ映画としてはあまりにチープだろう。ある理由がきっかけで赤い絵の具が使えない女の子が画家を目指そうと心の葛藤と戦うゲーム作品は、これよりも十年以上前に作られている。これがアニメーションを作って古豪と呼ばれる東映アニメーションの作品だとは、いささか信じられない安易な作りだ。

 そんな彼女の願いも、最終的に叶う。絵描きになるための歩みが、二十歳を超えてようやく始まる。

 問題はOLだ。この存在が物語をチンケなものにしている。

 彼女は古い言葉で言えばバリキャリのOL。今風に言えばウーマンリブの象徴のように描かれている。顔もスタイルも良く、一流の大学を出て一流の商社に勤めている。酒にも強く、行動力に優れ、少し前に流行ったフェアトレードにも熱心で、プランテーション的な低賃金重労働にも反対するなど人類社会の発展的な未来性にも余念がない。ここまではまだいい。そういう人も当然いるだろう。そしてお決まりのように彼女は往々にして男社会と戦っており、会社からは疎まれているものの、仕事先からは愛される女性でもある。そんな彼女にずっと寄り添うちょっとドジな男性後輩社員がいて、作中でもくっついたり離れたりしている。

 そういう人物像もまあいい。絵にかいたような完璧超人もいるにはいるだろう。

 そして彼女は勤めていた会社で得た地位を手に、フェアトレードも知らない、わからずやしかいない男だらけの会社を飛び出して独立する。ついでに彼女を慕っていた後輩社員もついてくる。そうして新しい事業として、教育実習生と絵描きのパトロンになる会社を立ち上げ、物語は終わる。

 これが本当に良くなかった。お話を作る上で、彼女は発射台でしかない存在なのだ。あしながおじさんを否定するわけではない。しかしあまりに当てつけがひどい。最終的なゴールにたどり着くためだけに作られた悲しい存在で、作中で描こうとした社会性をかえって軽んじることになる。現実にはこんな人間はいないし、フェアトレードもなされないし、教育実習生の夢も、フリーターの夢も、当然叶うわけがない、という話になってしまう。

 だから現実では頑張ろうね、と切り替えようとしたところで、この映画を見た人たちの何人が、超一流のスペックを持ったパトロンに背中を押してもらえるだろうか。おジャ魔女どれみをきっかけに知り合った人に、大学に通わせてもらえる人、絵の勉強をさせてくれる人がどれだけいるだろうか。逆説的にこの作品からパトロンになるOLの存在をなかったことにした場合、彼女たちは彼女たちの現実世界で頑張れるのか、という話になる。そして答えはおそらくノーだろう。

 女三人で飲み歩くこともなければ、旅にも出ず、最終的にお絵描きが出来るカフェ(のようなもの)だって完成しない。

 なんでも出来てなんでも叶えてくれる作中に都合の良すぎるOLの存在が、作品全体の質を、都合の良い、ありきたりな、安っぽい作品にしてしまっている。魔法は便利な手段だったが、直接現金を届けてくれるような安易な展開にはならなかった。ただ今作のこのOLの存在は、こちら側の世界を描くうえであまりにも現実離れしていた。理想として描くには安直すぎた。このOLがもしひげを蓄えた太った中年なら、コテンパンに叩かれていただろう。男女を逆転して成立しない展開は、そもそものコンセプトが破綻していると考えてよい。

 この魔女見習いをさがしてがもし、映画が始まる前に流れるCMに登場する、若いだけが取り柄の新人女優と、若いだけが取り柄の新人俳優による、こんなもん誰が見るんや的なラブコメディとして扱われていたなら、この程度でも良かったと思う。

 けれどもおジャ魔女どれみという作品は、そういうたぐいの子供向けアニメーションでなかったことは確かだろう。記憶に残らない程度の笑いの時間だけの作品なら、放送終了後もあの作品は良かったと長く語られることはなかったはずだ。現にこうして再び取り上げられるほどの深みのある、無意識下にある人間哲学の琴線に触れるような作品だったはずだ。

 そういった要素は作中からほとんど失せ、そしておジャ魔女の一行は誰一人として出てこない。声優は出てくる。おれたちの関先生だった葛城七穂さんの声が開始早々に聞こえてくる。教育実習生を担当する教師役としてだ。この時の感動は凄まじかった。まさかそこが映画のピークになるとは夢にも思わなかった。

 そしてついに映画としての実りある盛り上がりも欠け、絵空事のような展開を迎えたまま、映画館の明かりがつく。

最後に

 単純に、映画として面白くない作品だった。100点満点中の45点くらい。アニメーション的な世界観と、現実主義的な世界観の良いところを選りすぐった結果、双方を活かすような骨格は得られなかった。一つの皿に寿司とカレーが盛られているようなちぐはぐな出来だった。

 おジャ魔女どれみユアストーリーとか、皆はこう呼んだおジャ魔女ジーグとか、そういう趣だ。

 後年述懐するに、東映としてこの作品の脚本はかなり攻めた作りだったらしい。その話を読んで、「あれで??」とたまげもした。絵描き志望のフリーターが父親と決別する部分だけをチョイスすれば、アニメ映画らしからぬ作りだったかもしれない。ただ全体の構成としては名前におごった感が否めない。作家志望の新人がこの脚本を、劇中劇でつながった女三人の物語としてよこしたら、にべもなく却下されているだろう。

 これ単体をして全体を評するのは卑怯だが、デジモンのような東映リブート作品のクオリティを見越せていたら、期待感もそこそこに、おジャ魔女どれみほど語られない作品だったなあと思えたかもしれない。当時おれたちの水戸黄門だった、これよりしばらくあとに始まるデジモンアドベンチャーのリメイクも、気付いたら終わっていた。

 ただまあ、期待感ゼロで見たら、新しい発見や、悪くなかったという感想も生まれるかもしれない。あのおジャ魔女をお金払ってまで見たいという情熱のない人には、ちょうどいいだろう。特に映像作品に整合性や哲学性、芸術性や普遍性を求めない人には、なんやかんやハッピーエンドを迎えるので、OVAのように悲しくならずに済む。
 
 ただそこに、おジャ魔女どれみにあった魅力は一切ない。画面がキラキラして、フワフワしたあったかそうな雰囲気だけで満足できる人には、寒い冬に負けそうな心を温めてくれるだろう。

魔女見習いをさがして』は、2021年12月31日16時30分よりEテレにて放送予定。

 

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