精神医学の真実~私宅監置と呉秀三以降を

夜明け前~呉秀三と無名の精神障害者の100年~と言う映画を見てきた。呉秀三とは社会福祉を勉強している人は知っていると思うが、日本の精神医学の父と呼ばれる人で、これから述べる私宅監置を廃止し日本全国に精神病院を建てるよう尽力した人物である。映画は関係者の回顧録により構成され呉秀三をヒーローにまつりあげるような内容となっていた。

また映画上映後、精神障害のある人の私宅完治と現在というタイトルで日本全国の私宅監置の研究をしている愛知県立大学の橋本明教授の講演も聴いた。こちらは様々な角度から詳細に研究されていてとても聴きごたえがあった。

私宅監置とは、座敷牢とも言われ、起源は江戸時代まで遡ると言われている。昔は精神病院がなかったので、自宅に檻のような狭いスペースを作り、そこに気が狂った精神異常者を閉じ込めて世話をしていた。

1900年(明治33年)明治維新以来近代国家を目指す日本政府は、精神病者監護法を公布。これは精神保健福祉士や社会福祉士の国家試験の引っかけ問題として有名だが、精神病院に収容する事を目的としたものではなく、自宅の座敷牢などに私宅監置することを義務付けたものである。
橋本教授によれば、それまで各府県バラバラの規則だった狂人に対する処遇を檻に閉じ込めることに統一した「精神病者をコントロールする近代的な制度」である。一見進んだ制度のように思えるが、「自宅に閉じ込めて家族が世話をしなさい、それ以外は許されません」という、当事者にとっても家族にとっても負担の多い人権上問題のある制度である。このことは現在でも精神障害者が入院する際に必ず保護義務者を決めなければならないという条項が残っており影響を与えている。もっと正確に言えば、閉じ込めるは自宅でなくて精神病院でもいいのだが、当時精神病院は公的なものが全国で十数カ所、民間がほぼ無く、やむを得ないので自宅に監置するという法律の運用だった。これ、何かに似ていないか? そう「新型コロナ」が二類相当であるため決められた所にしか入院できないので、そこでは「医療崩壊」を起こしており仕方がないから自宅やホテルで自宅療養するという運用と全く一緒である。歴史は常に繰り替えるのである。また、私宅監置は警察などが捕まえて強制的に措置するのではなく、家族が役所に願い出て役所が許可するという形を取っている。これも「新型コロナ」の措置を国が命令しているわけではなく民間が勝手にやって国民がそれに従っているという逃げの構図とよく似ていて、時代がいくら経っても変わらないことを痛感する。

さて、呉秀三という人は、1918年に「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」という論文を発表し、私宅監置の悲惨さを訴え、翌年1919年に公布された精神病院法に尽力した人物で、教科書的には、精神障害者を私宅監置から開放したヒーローということになるが、実際は精神障害者は座敷牢から精神病院の閉鎖病棟に移っただけで、開放ではない。

さらに呉秀三は、遡ること1897年~1901年にオーストラリアとドイツに留学するが、映画の中にも出てくるように当時のドイツは脳の解剖学が盛んで、精神外科手術が勃興しようとしていた。脳の外科手術で精神病が治るという期待はあったものの、実は脳をいくら研究し調べても精神病の原因には繋がらず、ロボトミー手術など荒療法が横行して失敗に終わっている。また当時のドイツ、オーストリアは、鉄血宰相ビスマルクの治世の後で、人権軽視の侵略戦争、戦争国家が樹立されようとしており、優生学、実験心理学が勃興し、後のナチスによる障害者、少数民族、ユダヤ人の大虐殺に繋がる機運が醸成されようとしていた。このことが呉秀三に与えた影響は大きく、呉秀三が建設を急いだ精神病院も患者を実験材料としか考えない人権軽視のものになった。呉の作った都立松沢病院では様々な人体実験が行われ、後に宇都宮病院と組んで世界の医療史上最悪の宇都宮病院事件を引き起こす。

また、当時の日本は、憲法を作ろうとしており、イギリス、フランス、日本の民間など様々試行錯誤した上で、結局は当時勢いのあったドイツのビスマルク憲法を採用する結果になり、そのことが日本を軍国主義に導く結果になったとわたしは思っている。一般医学も当時注目を集めていたコッホの細菌学などドイツの医学の影響を受けることになり、このことが、現在も感染隔離とワクチン接種のみが有効という新型コロナ対策にも影響しており、経済を混乱に陥れた。日本の医学は薬物とワクチンのみの対症療法、毒物予防療法一辺倒になり、治らない医療・治さない医療・医療費だけが増大する医療になってしまった。

呉秀三は、日本で行われた私宅監置の実態を指して
「わが国十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の外に、この国に生まれたる不幸をかさぬる」
と表現したが、わたしは
「現代日本に暮らしたる日本国民は、この国に生まれたる不幸の外に、タイミング的にドイツの影響を受けた政治・医療の不幸を被っている」
と表現したい。

さて、ここからは精神医学の現状と、精神保健福祉とはどうあるべきかについて書いていく。

私宅監置(座敷牢)は確かに人権軽視の非人間的なものである。これを無くそうとした呉秀三の考えはその点で正しい。しかし彼が作った精神病院では、治療が行われず収容、時には人体実験が行われる劣悪なものとなった。収容先が座敷牢から閉鎖病棟に移っただけで、何も良くなっていない。このことは当時、家計を圧迫していた私宅監置に代わり精神病院に無料で入れることのアンケートがなされたが、精神病院への不信感から「今のままでいい」と答えた人が多いことにも現れている。

補足だが、呉秀三が進めた精神病院建設も都市部のみで地方は全く建設されず、私宅監置は1950年まで続いた。その後、日本政府は公立ではなく、民間で精神病院を建設する方針に変え、様々な特例を精神病院に与え民間参入を促した。そのため田舎の山奥に隔離型の精神病院の建設ラッシュが起こり、さらなる閉鎖化、特例による特権、人権侵害、医療利権の独占を生み、現在もそれが拡大再生産されている。

私宅監置から精神病院収容へ、脳の解剖や外科手術、電気ショックなどによっても精神病は解明できないどころか治らないことがわかり、精神科の命題は依然、治療よりも収容・隔離であり続けている。

1950年以降、様々な精神薬(治療の効果はなく症状を鎮静化するだけ)が出てきて、精神医学側は、精神薬は手枷足枷による拘束から患者を解放し人道的にしたと喧伝するが、医学的には投薬行為は最低でもインフォームドコンセントが義務付けられる「人権侵害」にあたり、解放でも人道的処置でもあり得ない。

1995年ごろから、山奥の精神病院に変わり、駅前に精神科クリニック、心療内科などが雨後の筍のように現れ、精神医学側は人道的になってきていると言うが、その実、薬で感情の起伏を押さえ暴れないように管理しているだけで人権侵害は続いている。わたしの表現をすれば私宅監置と変わらない。折しも精神科から退院でき、自宅から通院と言う形で患者は解放されたように見えるが、家に帰っても理解者がおらず、社会も阻害され孤立しているので、自宅に引きこもり自宅とクリニックの往復のみ。精神薬で感情が抑えられており就労はおろか社会活動ができなくなっている。結局は私宅監置と変わらないのではないか?

では、どうすればいいか?
昔は狂人と言っていた精神異常者・精神障害者も「治療対象」と見るのではなく、奇異な個性持つ「共に生きるもの」という認識を持つことが第一である。
精神病院や投薬治療が私宅監置に取って変わられなかった現実を直視し、深く反省すると共に、
・閉じ込める
・監視する
・変えようとする
視点を排除した暮らしを保証することである。
核家族化・孤立化が進む今、家族にそれは難しくなっているなら、全国にある高齢者施設(団塊の世代の入所ブームが去り空きが出ようとしている)に高齢者や職員と共に住むというのも手である。障害者施設もグループホームが拡充されてきているのでそれも良い。
また、ケアマネジメントシステムによって、一人暮らしでも要介護者のケアが可能になる仕組みがもう日本にもあるので(独居老人のホームヘルプなど)、そのような形でも良い。

また要介護状態の精神障害者は、服薬による薬害によって酷くなっているケースが非常に多いので、減断薬によって、要介護状態でなくなることも可能である。わたしがその一人であり、そのことは本に記してあるので、参考にして欲しい
精神薬やめたら病気が治った 
~精神医療・福祉の真実 ~ 永野哲嗣著
https://www.amazon.co.jp/dp/B09WLWRY4Y/ref=cm_sw_r_cp_api_i_6CYNZHKQBQ0YGAQAE8FJ

施設収容にしても、歪んだ精神医学を排除することによって、人権が担保され、前向きな生活が可能になってくることは、わたしが福祉の現場で仕事をした経験からも十分言える。要は精神病院を廃止して、精神異常者の処遇の主体を精神医学ではなく、一般社会福祉にするということである。透明性も期待できる。

狂人(精神異常者)は隔離されるものという発想は、もう時代遅れであり人権侵害で許されるものではない。2011年惜しくもグローバリズム主義者によって殺害されたリビアのカダフィは、リビアを名実とも世界で最も豊かで人権意識あふれる国家に仕立て上げた人物として有名だが、その彼が自らの政治信条を綴った「緑の書」で精神異常者について次のように書いている。
「個々人は、表現の自由をもっている。精神異常者といえども、その非理性的な行動によって、みずからの狂気を表現するのである。」
ここには精神異常者を排除しようとする姿勢はない。一人の人権のある存在として認め、社会参加させようという姿勢が感じられる。

また、イタリアという国には精神病院は存在しない。1978年に一人の大臣が法律で精神病院を禁じてから、精神病院収容は違法となっていて現在も続いている。世界を見ても、精神病院の病床数は激減の傾向にあり、治療から共生へという流れが感じられる。
残念ながら一大産業として依然君臨し、ベット数が減らないのは日本と韓国だけである。
わたしは、これを私宅監置と変わらないと表現し、呉秀三も私宅監置を批判したのはいいが結局何も変えられなかったというのがわたしの呉秀三の評価である。

どうしたら「私宅監置」をなくすことができるか?
各自がわがこととして考えて欲しい。
自分や自分の親が「認知症」として、あるいは自分の子どもが「引きこもり」や「発達障害」として「私宅監置」されることも現実として起こりうるから。

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