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劇場文化

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劇場論、劇空間、アンダースローについて
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#イェリネク

イェリネク語と地点語 佐々木敦

「わたしたちはいつも思う。全くの外部にいると。」 エルフリーデ・イェリネク『雲。家。』(林立騎訳) 私はドイツ語を読めないので、エルフリーデ・イェリネクの作品は、もっぱら日本語訳で読んできた。それでも彼女の言語遣いの異様さ、異常さはじゅうぶんに伝わるし(そこに多少とも勘違いや思い込みが作用しているとしても)、それを言ったら他の外国語の翻訳だって同じことだ。イェリネクの戯曲の日本語上演を最初に観たのがいつでどれだったかは記憶が定かではないが、それ以前に文字で邦訳作品を読んでい

「不協和音」の向こうに映る未来 森山直人

聴いたことことのない「不協和音」を聴いた。 『ノー・ライト』を見終わって、しばらく経ってから振り返り、思い出してみたとき、私自身が、この作品から受け取ったものは、ほぼこの一言に集約される。極論すれば、それ以外は、ほとんど思い出せない。私は2012年の初演も14年の再演も見ているので、木津潤平による圧倒的な舞台装置も含めて思い出せることはもちろんある。けれども、思い出そうとすると身体が拒絶する。思い出そうとして思い出せる内容が、ライブでの体験とくらべてあまりにも貧しいことが、

『ノー・ライト』感想 新野守広

地点を見始めたのは、2003年11月の『三人姉妹』からだった。春風舎の舞台には多数の古着やシーツが吊るされ、その前に椅子や机などの古道具が置かれていた。古道具に座る三人の女たち。彼女たちの背後から現れて、床に身を投げ出したり、バスタブから這い出したりする男たち……。どこかSCOTの『三人姉妹』を彷彿させながらも、意外な所で台詞を切ったり、通常のアクセントの位置をずらしたりして台詞を語る俳優たちの人工的な発声は、すべてを形式の遊戯に作り直し、内面から解放された身体を試そうとする

地点『光のない。』感想 赤松歩人(学生インターン)

マルチリンガル公演『ノー・ライト』は、地点の過去公演、エルフリーデ・イェリネクのテキストを舞台化した『光のない。』が原型となっています。今回、学生インターンシップの活動として「『光のない。』の公演映像を観て感想を教えてほしい」という課題が出されましたが、正直に言うと地点のインターンに参加しておきながら、私は『光のない。』を観たいと思いませんでした。東日本大震災をテーマにした作品と聞いていたからです。 私は宮城県仙台市に生まれ、大学進学まで18年間過ごしてきました。東日本大震

【対談】三浦基×佐々木敦「演劇のリアリティとアクチュアリティ」(その3)〜『光のない。』(2014)CHITEN✕KAAT特設サイトより

ノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクが東日本大震災と原発事故を受けて書いた長大なテキストを舞台化した『光のない。』は、2012年の初演の際、わずか3日間の上演にも関わらず観客からの圧倒的支持を得た伝説的作品です。2014年、この作品を再演するにあたって三浦自身が改めて『光のない。』について、早稲田大学文学学術院教授の佐々木敦氏と語った記事を全4回にわたってご紹介します。今回はその第3回目です。 ※《CHITEN✕KAAT》特設サイトの掲載ページはこちら ◀その1を読む ◀

【対談】三浦基×佐々木敦「演劇のリアリティとアクチュアリティ」(その1)〜『光のない。』(2014)CHITEN✕KAAT特設サイトより

ノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクが東日本大震災と原発事故を受けて書いた長大なテキストを舞台化した『光のない。』は、2012年の初演の際、わずか3日間の上演にも関わらず観客からの圧倒的支持を得た伝説的作品です。2014年、この作品を再演するにあたって三浦自身が改めて『光のない。』について、早稲田大学文学学術院教授の佐々木敦氏と語った記事を全4回にわたってご紹介します。今回はその第1回目です。 ※《CHITEN✕KAAT》特設サイトの掲載ページはこちら はじめに 岡室: