始めの第一歩。「息の跡」を観て。

出町座という1部屋50席ほどの映画館で小森はるか監督の「息の跡」を見た。こう書くと小森はるかさんがかなり有名な人のように思えるが、初めて作品を見た。(小森さんすみません)
前々から気になっていた出町座だが、小さい映画館という場所に入りづらさを感じていて、なかなか踏み込めなかった場所である。今から行ける作品は、、と時間帯で13時40分から行ける作品ということで鑑賞した。
チケットを発券機で買い、ガラガラの座席表でど真ん中の後席をとり、5分前に着席。その後ぞろぞろと人が来て全員で10人くらいだった。自分たち以外はみんなお一人様。逆に2人で来ているのが場違いな用に感じた。「今から上映いたします」とのスタッフの声で映画開始。小森監督の次作のみの広告で、広告の煩わしさがなく心地よかった。

内容については書かないが、感じたことを記したい。今でもまとまってないが、まとまってないのも「記録」だから今書きたいと思う。

人のためにやってる、とか、後世に残すとかの意義を聞いて、素晴らしい、と感じながらもなにか毎回言うことが違う、なにか本音じゃないと感じながら見ていた。佐藤さんの元々の「から元気さ」や陽気さからなのかと思っていたが、その言葉や態度の裏にはなにか良いあわらせないもの、またはいいあわらしたくないものがあるのかなと。それがさいごになって、「自分のために書く」と分かって腑に落ちた。その「自分のために書く」だが、自由奔放な自分の利益になるから、とかではなく、自分の想いの消化、悲しみをぶつける先として書いているのだった。やっぱり自分のためだった、と思ったがその意義が違うと今考えると思う。

みんな雇われたくない、市役所の人が一番とりつくろってる。おれにはできない
のとこが印象的だった。その後にわかることだが、店の場所も埋め立てられる。自身で気づいてその場で種屋をやっているのに、埋め立てられる。それは理不尽だ。また場所を奪うのか、津波と同じじゃないか、と思った。佐藤さんがどう感じたかは分からないが、そのように思っているんじゃないかと思わせる顔だった。それを「市役所人は取り繕っている」という言葉が出た理由だと思う。

「場所」に対する想いというのが分かったような気がする。少なくとも考えさせられた。
自分はあまりなかった故郷への思い。極論無くなってもいいと思う。それは自分の過去が嫌いだということからくるものだが、本当に無くなってしまったらどう思うのだろうかと想像した。
親に自己開示しようと思った。兄の話を聞きたいと思った。人をとりたいとおまった。人の生き様は面白い。人は面白い。ドキュメンタリー取りたい。絵を書きたい。動画を編集したい。やりたいことがぼんやりとではなくちょっと見えてきたような気もした。できるかどうかはおいといて。いたもそうだが笑。
このノートをみて新たな世界、自分を発信していい世界があると思った。
まとまってはいないけれど、全く何もまとまってはいないけれど、読める文章ではないけれど、まず投稿。続けてみたい。自分のことを発信するのを恐れていたけれど、ここからまず始めてみようと思う。という結論にスタバで行き着いた。

記録として残すことをしたいと思ったのも今日の映画のおかげ。ありがとうございました。加筆修正またします。
今日の第一歩におやすみ。30歳までの残りの時間、やり切るぞ。

コロナでイベントが落ち込んでいる彼女にできることはなんだろう。見せはしないけど、自分ができることはそばで変わらずにいることかもしれない。分からないけど、もう少し普通でいよう。それが彼女の正確からしたらいいことだろう。変わらない日常を提供できているかはわからないけど、多分できていないけど、できるとこをやっていこう。

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