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監督の言葉の呪縛

私は小児喘息でいつも季節の変わり目には発作を起こし眠れず辛い夜を過ごしていた。ただ、発作を起こしている時以外はいたって健康で元気いっぱい。なので誰にも同情されませんでした。父が体育の先生であり、私も多少その血を継承していてスポーツは得意でした。しかし、長い距離を走ると喘息の症状が出てしまうことがあるので、中学では走る練習が少ないと聞いた卓球部に入部しました。本当は野球をやりたかったが、めっちゃ走らされるので諦めました。
中学卓球部には指導者がおらず自己流でやっていたので、地区大会では勝てても上部大会に行くと勝てませんでした。高校に入学する頃になると身体が大きくなり身長は180cmに届くぐらいになった。喧嘩したら一発で勝てる様な相手にコテンパンにやられてしまう卓球は、試合後不完全燃焼でストレスが残る。それに喘息持ちのコンプレックスを払拭するために強い男に憧れていたこともあり、少林寺拳法の道場に通う様になった。大学受験の勉強が始まる前に昇段試験に合格することを目標にしていたので、それは達成して黒帯を巻けた。
大学に合格した時は、勉強する気など毛頭なく4年間遊ぶだけ遊んで過ごそうと決めていた。なので、校門付近に集まっている部活勧誘の人混みを避けて草原をかき分けて行く迂回路を使って駅に出ようとした。敵もさるものそこで待ち構えていたのがアメリカンフットボール部でした。何度も入部の意思はないことを告げたが帰してくれないので説明会に出ることだけ約束して解放された。説明会ではやたら優しい先輩達に囲まれ、アメフト部が上下関係が無くアメリカナイズされた合理的なシステムで練習が行われると説明された。私は割と身長があり少林寺拳法で鍛えていたのでそれなりの筋肉は備えていた。そのことについて美辞麗句で褒め称えられた私はその気になってしまい、入部を希望してしまったのでした。同時期に失恋をしていた私は少なからず自暴自棄的なメンタリティになっていたのも、無謀な決断の一因だったと記憶している。
入部が決まるとすぐに大きな後悔に苛まれた。最初の練習で説明は100パーセント嘘だったと言うことを知りました。1年生は3・4年生と直接話は出来ない。何かある時は2年生を経緯する。上級生が不機嫌な時は居残りのシゴキ練習がある。気が遠くなるほどのきつい練習でしたが、練習中水は一切口に出来ない。ほんと、よく死ななかったです。今なら事件です(笑)。
一旦やると決めたからには逃げたくないと思って頑張っていたが、セレクションではなく自分の意思で入部した部員のほどんでが辞めたいと思っていることを知り、半年後に集団で監督室に行き退部届を提出した。その時監督に言われた言葉が一生私を追いかけ回すことになる。「一度逃げた人間は、また逃げる」
アメフト部を退部した仲間達の多くは、クラブチームでプレイする様になっていた。私はバイトに明け暮れるつもりでしたが、仲間達に強く誘われたのでそのチームでプレイすることにした。私を誘ってくれた仲間達はひとり、またひとりと辞めてゆきました。それから約40年経って今年60歳の私はまだアメリカンフットボールをプレイしている。もちろんシニアルールで安全面を担保しての試合だが。「一度逃げた人間は、また逃げる」という言葉の呪縛でやめられなかったのです。でも、今年は還暦その言葉の呪縛から逃れてユニフォームを脱ぐことを決めました。事故の様なアメフト部との出会いでしたが、その出会いから40年アメフトは私の人生を大変ゆたかなものにしてくれました。アメフトを通じて知り合った仲間達は私の宝です。
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