たま 滝本晃司の「海にうつる月」という歌が好き。

あのなんとも言えないアンニュイ感じに分裂症気味な詩世界観。

ゆっくり気が遠くなる。心地よく現実感が失われてく。

 
 
こういう よくわからなくなってくのが 特に好きな人間だ。
私は。
他の人よりそれに対する執着はある方だと自分で思う。


音楽を聞いてるとジャンルとコンディションによるが
こう よくわからなくなってく。いつもその瞬間を追いかけてしまう。

眠りにつく直前も それに近かったり
小説、映画、性交、飲酒、喫煙、桑掌
近所をあてなくふらついたり 旅先でふいにそれが訪れる事もある。
 
あれはなんなんだろう。
言うなれば 脳が溶けてゆく感覚
ブッダが悟りを開いた時も おそらく快楽的な気持ちよさが伴っていたんじゃぁないかと あたしゃ睨んでる。

 
我々はどうしたって快楽主義なのは 抗えぬ事実であるのだ。
思想とか理念の前に 本能をたずさえた動物なのだから。
そしてどうやらこのよくわからなくなってく気持ちよさは、考えをやめてく時間の中に含まれる。
快楽主義とかどうでもよくね?

 
 
もう少し この感覚に突っ込んで考えてみると

正直 私はもう このテーマについて あんまり考えていない。

もう飽きてる。 別の事 考えてる。
 
 
 
今 書いている この文章は以前から書こう と思ってたテーマのストックであって
実はこのことについては自分の中である程度 答えが出てしまってるので 今さら考えなおしていない。
だから 筆のノリ具合とは別で、思考行為としては惰性で綴って遊んでみてるだけ。
つまり考えて書いてない。ただ本能とも自意識とも呼べないような手癖みたいなもので指を動かしている。
そしてそれは仄かに 気持ちよい。

なんだそれ。コイツ エロいな。

 
 
ただ この書いてる行為とは別で さらになぜこの なんだかよくわからない感じが訪れるのかは考察してみよう。
私は常々 この散文の中で 感覚 というものを追及してきたし、実態を掴みたがってるし、しっくりこようとしていた。
実態が無いもの ではあるが 今
この
考えることをやめていきながら書いているこの文章
この感覚の近くに
その正体がある気がするのだ。

 
私が感じている
この感覚的、抽象的、本能的、非言語的、共通幻想的
なものの核心部分は なんか ここらへんな気がするのだ。

 
 
あぁ、ダメだ。
もう よくわからなくなってしまった。

 
 
 
言葉を紡げば紡ぐほど
共感を求めれば求めるほど
自分を意識すれば意識するほど

それは遠くに離れてく。

 
 
月が地球にいつも同じ面を見せてまわってる。

私が見ている月の裏側は本当に存在しているのか
その感じている奥行きは例えまやかしであったとしても気付く事は出来ないじゃないか。
トゥルーマンショーよろしく それを想った時点でじゃないか。

う~む 理屈っぽい。

 
 
 
なんだか よく わからないですね。