全ての感情は 恥の上に成り立つ。

この喜怒哀楽という事象との比較によって起こる自己状態の認識化は 羞恥心を前提としたシステムだと個人的には思っている。

羞恥心が無ければ自尊心は生まれない。

プルチックの感情の輪にも 恥という概念は含まれていない。

 
社会性を持つから感情が生まれる。
社会性を持たなければ 自己と対象に対して関係性が薄くなるため なにかを強く思ったり熱く感じたりしない。
そこにあるのは 気分 と呼ばれるものだ。
 
よく感情をぶつけるとか、感情を押し殺すとか
そう言った表現を耳にするが
感情が漂うとか、感情がノってるとか あんまり言わない。
感情は抽象的なものでありながら ちょっと物体っぽい。
 
 
喜怒哀楽という言い回しは

なにも感じていない無の状態と、自己と対象に対しての摩擦がある恥の状態の

割合の事を指しているのだと思う。


喜びは
無が80% 恥が20%くらいだと思う。
喜びは ちょっと恥ずかしい。
味噌汁の具のあさりの中に小っちゃいカニが入ってるのを見つけた時 私はそれに 嬉しさと照れ臭さが混じった気持ちになる。

怒りは
無が60% 恥が40%くらいだと思う。
駆け込み乗車 あと一歩のところで扉が閉まって電車が行ってしまう。私はその時 わからぬ苛立ちのぶつけ先と周りの視線の矛先のちょうど交差点に立っている。

哀しみは
無が40% 恥が60%くらいだと思う。
保育園の壁や看板に描かれている人気キャラクターのニセモノたちを目にした時 なぜだかわからない哀愁と絶妙な下手さが醸し出す含羞の色がその地域一体のいたたまれなさを内包し直視をさせない。

楽しみは
無が20% 恥が80%くらいだと思う。
意外かもしれないが
楽 という感情は最も恥の割合の方が多い。
長年連れ添った男女の警戒心が解れていくと同時にお互いの裸を見ても何も思わなくなる。この解放感の長い過程こそが楽であり、ランナーズハイ達成の瞬間のことを 楽しみ と人は呼ぶ。

楽観主義は「もう どうでもいいや」の入り口であり
もう少し自意識の成分を1、2滴垂らせば 身悶えに苦しまさせられる羞恥心の塊になりうる状態である。

アダムとイヴは林檎を食べさえしなければ自らの裸に恥じる事は無かったであろうし 逆に言えばその恥の感覚も慣れてさえしまえば林檎食べ放題なのである。

裸を隠すことは 恥を感情で包むことで

その着脱の回数、肌の露出面積を 喜怒哀楽と名付けているのだと 私は感じる。



うん 感じる。
 
 

 
感じる。
 

 
感じるだけ。 

それだけ。
 
 
 
 
あとはもう
 
特に言いたいことない。
 
 
うん。 
 
なにもない。 
 

 

なんかいろいろ能書き垂れてたけど
 
それもよくわかんない。 
 
 
ただの暇つぶしの
 
こねくり回し。
 


どう?

 
 
結果よくわかんないだろ?

 
うん 
 
おれもよくわかんない
 
 
 
なんか
 
おれはずっとなにを言ってるんだろう


 
思っちゃってね 。

 
 
 
いいですか?
 
 
 
皆さん 
 

 
 
これが 
 
 
 
  

 
楽です。