道端に 落ちていた ジップロックの中に 犬の糞が 入っていた。

私は最近 日中あてもなく 町中や、海沿い、路地裏、公共施設、墓地、国道などを さ迷い歩き 昔のことなどを思い出しては 時間を無駄に使っている。

3歳くらいの頃
神奈川県は弘明寺という地域に住んでいた。
両親の仕事の都合で引っ越してきたばかりで、近所の子供たちは幼稚園、小学校に通っている年齢、父親は仕事に出掛け、母親が家事をしている間 兄弟もいなかった私は ひとり遊びを余儀なくされ 家の外を歩く。

その時、時間が 無限に感じた。

閑静な住宅街で、今より落ち着いた時代と土地柄だったからなのか なにかに巻き込まれることもなく。
建物を見て、植物を見て、昆虫を見て、空中を見て、たまに 大人を見た。
調子に乗ってひとりでブツブツなにかを口走ったり、実際に走ったり。
ありあまる時間と世界の全てをふらついた。

それから何年かし、場所も変わり
28歳の私。

あの時とやっていることが変わっていない。

ただ、風貌、状況、社会的地位、そこから漂う雰囲気は変わった。
おそらく同級生がお金を稼いでいるであろう時間帯に ただただ町中をほっつき歩いては なんの生産性も無く すれ違う人々に薄気味悪さだけを配って歩く 金髪薄毛伸ばしほったらかし気味の 低身長 低収入 小太り眼鏡。
その 存在価値は 辞書に書いてはいない。

青空に響く 蝉の鳴き声が
「お前が1週間の寿命だったらいいのに…」というメッセージが込められているかのように鼓膜を叩いてくる。

また今日も ただただ 家の外を歩いている。

那覇市 仲井真 那覇東バイパスに掛かる歩道橋を渡って降りる「なにをやっているんだろう」という一抹の不安と、しかしながらこの生活にしっくり来ている己の人生観に愕然としながら 私は足元を見た。道端に 落ちていた ジップロックの中に 犬の糞が 入っていた。



なんだそれ と思った。

と 同時に 馬鹿馬鹿しい気分になった。

おそらく飼い主が 始末をして それを散歩の途中に落としてしまったのだろう。
それは わかるんだけど そのビジュアル、ある場所、想像だにする一連の流れ とても滑稽に思えた。

私はそれを2秒見て 鼻で笑い そして自らの自意識も 処理しようとしても筒抜けて見えてしまう 意味の無いなにかの副産物に過ぎないなと感じた。

とどのつまり 犬の糞に救われた。

そのこと自体 すでに下らない。
まぁでも そんなものだなとも思い 徘徊したいから徘徊しているのだと 妙な自信と確かな自虐 とも言えぬものを手に入れた私は それを尻目に またもの思いに更けながら歩いた。

すれ違った 女子高生が 一瞬こっちを見て 鼻で笑った。

誰か 
私を ジップロックしてくれ

と思った。