お寿司屋さんに行った時 回らないほうの。
目の前に置かれる 握りたてのそれを
2秒見て 食べる。
「美味しそうだな」と思って食べる とやはり美味い。

この一連の動作 味に気を取られるが
物体の共有をしている感じがなにかのフェティシズムをくすぐられてる。

知らないおじさんが素手で握ったものをそのまま口に運んでいる。こう書くと衛生面で文句を言っているように聞こえてしまうが むしろそれが良い と伝えたい。

もっと言うと
魚をさばいている。店によっては生け簀から出してそのまま包丁を入れる場面もあるだろう。それも良い。グロテスクさを感じている己の感情や感性に興奮しているのでは無く。やはりその空間で物体を共有している感じが心地良く エロティシズムでもある。

我々のもつこの体は 精神と切り離されている。
と説いたのはデカルトの実体二元論だったか。
この考え方は割と精神から身体を理解する見方な気がする。
私が今回言ってるのは身体から精神を感じるという話。

サウナに入る。
体が暑さで限界を迎える。
しかし脳は「さっき入ってきたアイツよりは長く居よう」と思っている。
謎のプライド。身体と精神の切り離し。
火照った皮膚と巡る血流、研ぎ澄まされる神経細胞
私の身体は私のものなんだなと強く感じる。

このまま溶けて無くなったら
「あぁ、溶けて無くなった…」と私は感じるのだろうか。

個展にたまに行く。
絵より壺とか見た時に感じるのだが
存在している という物体の共有。

「作者の葛藤が強く現れてる」とか
「太古から積み重ねてきた祖先の声が聞こえる」とか
「自然との調和」とか「宇宙の真理」とか

実際そんなことあんまり思わない。

寿司屋で寿司が出てきた時の
「美味そうだな」っていう感想となんら変わらない。

これはほんとただの下ネタだが
私が生娘だったとしたら
「こんな大きいの入らない…」と思うと思う。

品の無い例え 失礼致しました。

空間に対しての物体という存在。
どこまでが自分でどこまでがそれ意外なのか。
自分と同じような個体を見た時初めて認識する自分という個体。
捕食や出産や死滅した時 意識はどこから発生しどこから途切れるのか。
わかってないようでわかっている気がする。

ハゲるのが嫌だと思ってるとどんどん進行するけど、もういいやって諦めたら 気持ちちょっと抜け毛の本数減った。みたいな。

今度は 例えがなんだかバカバカしい

身体から精神を感じるという話。