初めての転職

初めての転職
僕が足かけ16年勤めた日産からルイヴィトン・ジャパンに転職した切っ掛けは、バブル前夜の1986年暮れ、ヘッドハンターの紹介でルイヴィトンを世界的なブランドに押し上げた立役者秦郷次郎氏にお会いして気に入られたこと。二回目に飲みに誘われてこう口説かれた。「EUの統合でルイヴィトンへは、ファッションや化粧品、お酒など多くの老舗ブランドがルイヴィトンの成功にあやかりたいと自分たちから傘下に入って来た。本社からはそれらの再立ち上げを頼まれているが片腕が欲しい。僕は流通革命で成功してきたのだから、百貨店に手揉みをするような業界のプロは欲しくない。マーケティングのセンスさえあればどの業界でもいい。仕事は僕が教える。いやむしろ異業種からの方が良い」と。外資への転職はそれまでの業務経験を問われることが多い。しかしマーケティングのプロを目指し、経営者としての仕事にも興味を持つとなると、それは明らかにマイナス。だからこのオファーにはとても魅力を感じた。もうひとつの決め手はルイヴィトン・ジャパンの営業利益が3割と言われたこと。一体どうすればそれほどの利益が生みだせるのだろうと。

海外の仕事に憧れて日産に入社。英語が出来ると吹聴し、運よく当時日の出の勢いだった北米市場担当部署に配属になった。4年目から芙蓉グループに2年出向、留学したいと会社に掛け合い、その後ケロッグに2年留学したのち、同じ部署に戻った。当初からマーケティングの仕事には興味があったので製品スペックの担当に志願した。当時全米で大ヒットしていた240Z の開発チームに入れてもらったことをアピールし、運よくマーケティングで全米1位といわれたノースウェスタン大大学院(在学時にケロッグスクールに)で受け入れてもらい多くの知識を得ることが出来たし、また帰国後も同じ仕事に戻れたので、足掛け10年は北米向けの製品企画に従事したことになる。その時の成果が全米初のSUVパス・ファインダーを生み出したこと。一方で僕は、リーダーシップの講義で、同様の仕事に10年従事したらどんなに面白い仕事でも10年一日。むしろキャリア上ではマイナスと説いている。途中ブランクはあってもプロダクトマーケティングに足掛け7,8年携わったので今度はセールスマーケティングの経験をしたいと思い他地域への移動希望を出していたところ、インド向けに始まった事業で人が欲しいとのことでそちらに回った。技術提携交渉から始まったこの仕事は打って変って新鮮。2つの異なるプロジェクトを担当し、インド中を駆け回り嬉々として没頭していたのだが、極東大洋州という部署内の組織変更に伴って、たくさんの地域の製品企画の相談に乗るコンサルのようなポジションに振り向けられてしまった。これは正直目をつぶっていても出来るような仕事。しかも影響力の大きい北米市場と違って社内発言権が弱いから苦労する。良かれと思って大鉈を振るうと古参の担当課長たちに嫌われる。ルノーの出資を受け入れざるを得なかった惨状からさかのぼること10数年。僕の目にははっきり行く末が映っていた。これがやや遅きに失した観のある初めての転職を決意した理由だ。

しかし当時は一生を保証されていた大企業からの転職は極めて稀。周囲から何故転職したのかとの質問攻めにあったものだった。メルセデスやBMWからのヘッドハントが始まった時代でもあった。挨拶回りをしていた時、海外部門の先輩から「僕もBMWから誘いがあったんだが断ってしまった。今じゃ雇ってくれないよな。」という愚痴を聞かされたことも記憶に残っている。その人にとって転職した方がよかったか否かは別として、転職はタイミング。特に初めての転職は清水の舞台から飛び降りるようなところがある。優秀なヘッドハンターならだが、本来転職など考えてもいないような秀逸な人材を、人生を変えてみないかと口説くもの。AIの進化による新たな産業革命が勃発し、皮肉にもコロナ禍がその後押しをしている。コロナ禍が一段落したのち、見える景色は全く違うものになっているはずだ。つまりは5年10年先自分の働き場所がどうなっているのか予想がつきにくい。そう考えれば同業種からの誘いにはよほどの好条件が明示されない限り飛びつくべきではないだろう。コンプライアンスやセキュリティー上のリスクも忘れてはいけない。人事畑や経理の仕事を除いて異業種から声が掛かることは前述のごとく稀。となれば与えられた仕事に漫然と身を任せるのではなく、そこからどのような多角的なスキルを身に着けるかを常に自問自答すること。同じ仕事は長くても5,6年まで。上司や取引先への義理を欠こうが、半ば無理やりでもいいから職種や部門移動にチャレンジすべきと心得るべき。外の勉強会や異業種交流を中心に人脈を作りこれからは起業も視野に入れること。

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