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「誰がために医師はいる」

私は看護師だけど、精神科では働いたことがない。
だから、これから書く文の中に、専門家から見たら浅薄な知識からくるな部分があるかもしれないけれど、そこは思いのままに書くnoteの記事として許してほしいと思う。

若い時から精神科は苦手だった。
そんな私が精神科に関心を持つようになったのは、息子が不登校になってから。

当時住んでいた地域で、いじめによる中学生の自殺が大きく報道された。その時私は、学校にいけない子ども、いじめる子ども、いじめられ自殺をする子ども、非行に走る子ども、リストカットする子ども…行動はみな全く違うようにみえるけれど、根底にあるものは同じなのではないか。そう感じた。みんな孤独なのだと。

そして、その先、精神的に病んでしまうこともある。
社会の中で大きな事件を起こしてしまうこともある。
でも、彼らは生まれた時から精神疾患でも加害者でもなかったはず。
孤独な彼らは、寂しさや痛みを体験しており、人生のどこかにおいて被害者だったのだと。

親子関係や生き辛さを抱える人に関心が芽生え、それらに関連する本を読み、心理学などの講座を受講していく中で、依存症を専門にしている精神科医の松本俊彦先生を知る。
「こんな精神科医が日本にいるのか?」
もっとこの先生のことを知りたいと思い、著書を数冊読んだ。

私が、精神科が苦手だったのは、患者の今ある症状にしか目を向けていなかったからだ。
メジャーな科でしか働いたことのない私には、たまにお会いする精神科患者のぶっ飛ぶようなお話やループする終わりの見えない悩みの訴えにどう対応していいかわからずにいた。
遠い昔実習先の精神科病院で見た人間の尊厳などとはほど遠い密室の中の光景も忘れられない。

そして、患者の「困った症状」や「手に負えないほどの苦しみ」の原因がその人が生きてきた過去から引き継がれているということ、その理解なしに支援は出来ないことなどを先生の著書から学ぶ。私は看護学生の時も、看護師になってからもそのように学ぶ機会はなかった。
この先生は、痛みを抱える患者の背景、それまでの苛酷な人生の物語に耳を傾け寄り添う視点を持っている。
「この人は、どのようにしてこのような医師になっていったのか?」

松本俊彦先生の新刊「誰がために医師はいる」を読んで少しだけ理解できた。
気になっていた精神科医の自己開示…。
思春期の切なさに胸がチクっと痛み、医学生の先生に「ちょー、ヤバかったじゃん!」と心の中で小さく叫ぶ。ネガティブな思考に「うふッ」と笑ってしまう場面もあった。一気に読めて、面白かった。

そして、先生自らが患者と向き合う臨床経験の中から「精神科医を縛り付ける神話」を払拭していき、苦しみを抱える「その人」に「その苦しみ」に寄り添う医師になっていく。

こんな精神科医が増えるといいな。

松本先生の著書の中には「自助グループ」や「対話」の大切さが書かれている。
私が学び繋がっているティク・ナット・ハンのマインドフルネスのサンガ(マインドフルネスを実践する仲間の集まり)は、自助グループのようなものだと思った。

「愛をこめて話し、深く聴く」「ジャッジやアドバイスはしない」「ただ存在を差し出すだけ」

精神疾患や依存症と診断された人だけでなく、人は誰も苦しみがある。
誰もが「安心・安全な場所」で自分のことを語り、他人の人生の物語を聴く。
人には、そんな場所が必要だ。
精神疾患や依存症の治療にもそんな場所が効果を出していることが明らかになっている。

松本先生は、相模原事件が起こった直後、加害者に対して「障害者を差別するなんて許せない」という世論の声が多くあった中「(まだ精神鑑定は出ていないけれど)加害者が精神疾患であったとする。それなら、もしもそうだとすれば、私たちが突きつけられている課題は、いずれの障害者に対しても隔離したり排除したりすることなく、同じ地域住民として共生する社会は可能なのかということです」と述べている。

隔離、排除、刑罰ではなく、同じ地域の中で共に生きていけるそんな社会。
そして、松本先生が著書の中で書かれている「美しい処方」を実現させることが可能な環境。
それには十分なマンパワーが必要だ。
抜本的な医療の改革も必要だろう。
簡単に出来ることではないかもしれない。
でも、先ずは多くの人が今まで知らなかったことを知ることが大切だと思う。

医療従事者の私でさえ知らなかった精神疾患の背景にある当人の苦しみ、そして今も残る精神医療の問題点を多くの人に知ってもらうこと。

だから「誰がために医師はいる」
この本が精神科医療に携わる人にとどまらず、多くの人に読まれるといいなと思う。

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