わたしから伝えたいこと

まず初めに、件の女性が亡くなられた事件に関して、心からご冥福をお祈りするとともに、決してあってはならない、どんな償いを以ってしても許されない出来事であることをここに明記しておきます。
何者も、他者の命と尊厳を脅かす権利などあっていいはずがない。たとえいくら資本を持っていようと、たとえいくら名声があろうと、それは言わずもがな至極当然であり明白なことだと考えます。
そこに、可視/不可視の特権・力関係や経済格差があればなおのことです。自身の発言や行動に加害性がないか、 “任意”という建前のもと、他者を屈服させ自分自身の優位性を認識するために、他者を傷つけ危険に晒してはいないか、常に自覚的であるべきです。
ましてや、今回の事件においては、「750ミリリットルのテキーラを15分以内に飲む」という明らかに生命の危険が予見されるべき状況において、資本を持つ者が、“他者が命の危険を犯すこと”に対価を払う、そんな事があっていいはずがありません。そんな提案をすることも、「ゲーム」などという軽薄な表現を使うことも、総じて許されるべきことではないと改めて強く明示しておきます。これは、フェミニストとしてである以前に、1人の女性として、そして1人の人間として当然の感覚だと思います。まずはそのことを明確にお伝えした上で、今回わたしに向けられている言説に対しての意見を下記に述べさせていただければと思います。長文になりますが、ご一読いただければ幸いです。

執筆の背景 -鬱を再発しています-

先月9日、私の名前をあげて書かれたnoteについて、説明をさせていただきます。詳細については後述しますが、先日の佐俣のnoteにもありますとおり、わたしと光本氏のあいだには何の交流もなく、お会いしたこともない方とわたしを“身内”として一括りに決めつけ批判を展開する先般の主張には、甚だ違和感と怒りを覚えます。また、佐俣と光本氏が友人関係にあることに忖度をして、当の事件に対し何のアクションもとっていないという主張につきましても、後述するとおり事実とは異なります。こういった事実に基づかない事項を集め、推測や憶測をさも断定的なことかのように名指しで書き連ねた記事やツイートが出され拡散されたことは、到底納得できるものではありません。さらには「女性の声の代弁者であった江原ニーナ氏が、突如としてテキーラで女性を死なせるような立場にまわる、そんな恐ろしい"罠"みたいな「偽装的フェミニスト」をどのようにして見抜けばいいのだろうか?」(原文ママ)といった悪意あるデマを、複数のアカウントがまるで事実のことかのように受け止め、二次拡散とともに揶揄したり、事実と異なる情報を添えてバッシングするような声も見受けられました。これら一連の出来事に対し、この一ヶ月間心と尊厳を大きく傷つけられ日々の生活もままならず、医師から「うつ病」という診断がおりました。記事が投稿された8月9日から今日までの約1ヶ月の間、声明文を出そうにも心がついていかず、該当の文章を改めて再読することすら抉られるような思いで過ごし、医師の治療を仰ぎながら今日に至った次第です。「事実誤認なのであればなぜ反論しないのか」という声に押し潰されそうになっていたこともあり、約1ヶ月たった今、このnoteを少しずつ少しずつ書きようやく本日公開に至ったという経緯を、まずはお伝えできればと思いここに書き記しておきます。

当該記事が出てからというもの、強いトラウマに襲われて全く眠れない日々が続き、以前のような日常生活を送ることが困難になっています。気分の激しい落ち込みや、突如溢れてくる涙、制御できない怒りや悲しみ、悔しさ、絶望などの感情、無気力感、消えてしまいたい気持ちを毎日何度も何度も経験しながら、通院や投薬治療、カウンセリングなどを通じて闘病しています。この後詳細に説明をしますが、自分に関する事実ではないことを、あれほど強い言葉で批判され、それらが広がっていく様子や、正体不明の相手を前に、対話ができる可能性が低く言葉を奪われたように感じる状況は、心を深刻に蝕みます。わたしは鬱により休職せざるを得ない状況になり、復帰の目処も立っていません。今回の件に限らず、周りから見るとほんのささいな、たったひとつのnoteかもしれないし軽い気持ちで押した拡散のボタンなのかもしれません。あるいは、悪意なく反射的に書いたバッシングの言葉かもしれません。外から見れば、ともすると「事実と違うのだから気にしなければいいよ」と思われるようなことだったとしても(実際にそういった“良かれと思って”の声も頂きました)、これまで傷つきながら必死で男性優位のスタートアップ業界の中で声を上げ続けてきた私にとって、今回の出来事は決して小さなことなどでは片付けられない、深い傷を残すものでした。しかしこういった些細なきっかけがトリガーとなり、このように相手の人生を大きく狂わせ、キャリアすら危ぶまれる状態に簡単に陥らせてしまうことがあるのだという事実をまず伝えたいです。

また今回のnoteは、わたしが主にわたし自身の気持ちの整理と、わたしの身の回りの人に向けて書いたもので、反論を求めておりません。つきましては、こちらのnoteへのいかなる反論もご遠慮ください。万が一同様に応対を求められ続けたとしても、拝読及び返答しない方針でございます。またTwitter等SNSからは当分ログアウトさせていただく予定です。

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当該noteへの率直な感想は、正直「よくわからない」でした。強い根拠がない一方、主張も言葉遣いも非常に攻撃的だと感じました。脆い根拠に基づく偏向的な推論は、兎にも角にも相手を攻撃したいという意思を感じさせ、社会になにか正義を訴えたいというより、社会や業界への鬱憤なのか、憎悪なのか、とにかくそういった別の意図を感じざるを得ませんでした。

しかし、デマを含む推論で書かれた文章が拡散される事態は、単に不快であるだけなく、先述したとおり私の尊厳を大きく傷つけ、精神や生活を著しく蝕んでいます。さらにはその内容に便乗する形で、私のみならず私の周りの人々にまで粘着し、さまざまな疑念をかけようと試みる方も見受けられます。わたしは、今回書かれたnoteの内容に関して、事実ではないものと、非難する矛先を誤っているものとのいずれかに分けられると考えています。事実ではないなら放っておく方が身のためでは、というアドバイスもいただいた一方で、自分の尊厳を少しでも回復するためにも、身の回りの大切な人たちを少しでも守るためにも、わたしがここで意見と立場を明示する必要性を感じました。これが本noteがめざすところの一つです。

次に、わたしはこれからもジェンダーギャップを起点として、この業界、さらには社会全体のダイバーシティやインクルージョンに関する課題解決に、努力を惜しまず邁進する所存です。そのためには、たくさんの人の力や知恵をお借りし、時に学び、時に内省し、時に連帯しながら進めていく必要があります。誰か一人で走るだけでは不十分で、輪となり、広げていくことが不可欠なのです。私がこれまでやってきたことにしても、まだまだ道半ばで、今後も仲間を増やし大きな変化を促す必要があります。この先その道中で、今回の件が目にとまり、誰かのこころに疑念が生まれ、変化が阻まれたり、声を上げることを恐れ躊躇ったり、失速させられるような事態があれば、それはわたしの望むところではありません。これから増えていくまだ見ぬ仲間たちのためにも、現在さまざまにサポートしてくださっている方々のためにも、一度自分の言葉で伝えなければいけないと感じました。

さらに、上記と重なる部分もありますが、スタートアップの業界でダイバーシティを進めようとすると常に、「男ばっかり、飲んで遊んでばかりの人も多い業界でしょ」というステレオタイプから、われわれの取り組みを"キラキラしたお飾り"かのように、ダイバーシティを商売道具にしている、と纏められ、距離を置かれることが度々ありました。これは、いわゆる"クソリプ"として届くだけではなく、スタートアップ業界に対して外から持たれているぼんやりしたステレオタイプによるもので、業界を超えて取り組みを行う上で足かせになってきた事実があります。

実情として、そういった方が一部いることは事実であり、それにより深く傷ついた実体験がある方もいらっしゃると思います。これは議論の余地なく正しく対処されるべきですし、セクハラや性暴力等は断固として許されることではありません。その断固として許さない姿勢や意志や声は、業界外だけでなく、業界内にも存在していると感じています。そして、私自身もその1人です。しかし、その声はいまだ小さく弱く、マイノリティ性を持って抑圧されたり排除されることも少なくないように思います。

その上で、この業界に対し「飲んだり、遊んだりばかり」とか、時には「セクハラも、性暴力も見逃されている」等、といった印象を持たれていることにより、わたしが業界の内外を繋いでD&Iについて発信したり意見を求めたりしても、「でも、そういうことが横行する業界ですよね」とあまり取り合ってもらえないことがこれまでも確かにありました。同様の印象を持つ方からすれば、今回のnoteをみて、ほらやっぱり、と思ったかもしれません。しかしながら、わたしを含め、真摯にこの課題に対して人生をかけて取り組もうと戦っている人たちも大勢いて、過去の反省とともに変化を求めようとする動きがある中では、あらためてスタンスを示す必要があると思いました。

※改めて強調しておくと、セクハラや性暴力等を含むあらゆる暴力・侮辱行為については断固許すつもりはありません。加害者への適切な対応と、被害者の方へのただしいケアが提供され、それらが行き届くことを心から願うと同時に、微力ながら自分自身にできるアクションは引き続き全力で行っていく所存です。
※スタートアップ業界の、とくに女性メンバーや女性の経営者/リーダーへのセクハラや女性蔑視発言はこの春実行したヒアリングで実態がより明らかになってきました。ヒアリングの結果を受け、現在どんなプレイヤーが誰を巻き込んでどのようなケアやサポートを提供できるべきか、リサーチと議論を進めています。しかしこれも道半ばです。解決への思いは強くあります。解決に向けて動いています。
またこれは男性側への被害を矮小化する意図はありません。顕在化している女性の被害の予防や解決の手立てを作っていくことは、同時にあらゆる性別の方が困ったときに相談できるシステムの構築にもつながっていくと思います。

ブロックした理由、このnoteを書く困難さ

過去にも当該noteの筆者には、私のツイートを許可なく、かつ恣意的な形で彼(あるいは彼女、身元がわからない匿名アカウントのため)のnoteの中に引用されたり(恣意的な引用については他の人からも指摘されています)、お互い面識もなく、先方は匿名的で正体不明のアカウントであるにも関わらず、突然「こんにちは。フェミニスト、またはVC側として今回のハヤカワ五味さん並びに他フェムテックブランドの炎上について、もしよければご意見伺いたく思います。よろしくお願いいたします。」(原文ママ)と名前も所属も明かさずメンションが飛んできたりしていました。(※こちらのツイートは現在削除されているようですが、スクリーンショットが残っています。)

普段私が仕事や日常でのやり取りをする中では、面識がなく正体不明の他人にこのようにいきなり何か言及を求められることも、当然私自身がそれを別の誰かに強要することもありません。内容を問わず、理由は単純です。相手がどこの誰なのか不明な状況下で、このように唐突に、その上応答するのが当たり前のような(むしろ答えない方が悪のように扱われる)有無を言わせず相手に何かを強要する態度は、相手の状況や意志を無視して何かを押し付けることだからです。そしてそれは、された側にとって耐えがたい恐怖や不信感を生むことがあると身をもって感じています。何かの事象に対して、渦中の本人や当事者ならともかく、その事実関係すら確証が取れない第三者に対して、見ず知らずの他人が発言や言及を強要することは、時に暴力になりえると考えます。もちろん、いちアクティビストとして、無関心や口をつぐむことがマジョリティへの加担に繋がりうることは重々承知の上で、それでもなお、特定の事象に対する関係者以外の言論として、誰が何に対してどんな発言をするか/しないかは誰にも強要できるものではありません。ましてや、SNSという限られた言論の場だけでその人のスタンスや人格の全てを理解したように決めつけ断罪することは、あまりに軽率に思えるのです。何かをSNSに書かない、書けない理由は、人によって、そしてその状況やその人の環境によってそれぞれあるのではないでしょうか。例えば、許されない出来事であると自分自身が思っていても、既に多くの方が指摘している場合。問題だということ自体も、何が問題でどこに課題があるのかということも、既に本人にも社会一般的にも広がり認識され、さらには炎上の先の誹謗中傷の域にまで近づいている、と感じるタイミングの場合。個人として問題だと思っていても、わざわざSNSでこれ以上自分が火をくべる必要はないと判断する場合だってあります。なぜなら、自己利益のために批判するのではなく、社会の変化あるいは間違いを犯した当人がその間違いに気づき反省するために、声を上げるからです。他にも、真実だとするならば許し難い一方で、事実関係が分からずファクトチェックもできない情報の場合、即座に批判をしない、という判断をすることもあります。他にも、誰かにフラッシュバックを引き起こしかねないような内容の場合、注釈をつけて投稿したり、そもそもTLで誰かの目に触れて傷つけたくないという意図の元、SNSでは拡散/言及しないという判断に至ることだったあります。SNSの外で、既に何かしらのアクションを取っていることだって当然あり得えます。例えば、子育てが大変だったり、体調を崩してたり、仕事が忙しかったり、といった状況は十分にありえるでしょう。精神的/身体的/時間的な余裕がないことは十分に考えられます。世の中全ての事象に常に対応し議論し続けることを大前提に、人は生活を組み立てているわけではありません。人にはメンタルの不調もあれば、そのまた別の理由で動けない時だってあるのです。SNSの外にだって当然それぞれの人生は存在しますし、人間は機械ではなく常にゆらぎがある生き物だからです。いきなり街中で知らない人から、「これについて発言してください!」と話しかけられ、しつこく強要され、相手にされなかったからと「言及しないならば貴方は女性を死なせるような立場にまわる、「偽装的フェミニスト」です」と判断されたらどうでしょうか。きっと怖くてその場を立ち去ると思います。それがいかに暴力的なことであるか、画面を通した文字情報になると分からなくなってしまう人がいるという事に、強い危機感を覚えます。繰り返しになりますが、事実関係すら確証が取れない第三者に対して、見ず知らずの他人が発言や言及を強要することは、時に暴力になりえます。わたしは実際に強い恐怖を覚えました。それほど他者に恐怖を与える言動だということを再度お伝えしておきたいと思います。

また先に述べた通り、私に何の許可もなくかつ恣意的な形で、勝手にnoteに私の過去ツイートの引用(リンクではなくスクショである点も不信感を覚えていました)をしている様子や、それに準ずる形で度々行っている他の人への偏った批判の仕方を見るに、私が日常で慣れ親しんでいるコミュニケーションのプロトコルで対話ができる相手ではない、と判断したためこれ以上絡まれるのは怖い、と恐怖を感じてSNSをブロックした背景があります。それは上に記したように、非常に暴力的かつ抑圧的な言動だと恐怖を感じたからだけでなく、それを何度も何度も繰り返し執拗に投げかけ押し付けてきたその執着心にも、1人の女性としてそこはかとない恐怖を感じたからです。身分を明かさず偏った情報や言説のみであげつらうのではなく、本当に事実関係を知りたく対等な関係でのやり取りを望むなら、会社のフォームや共通の知り合い経由で連絡してくださるだろう、と思ったからです。

さらに、この点は消そうかギリギリまで迷いましたが、当該noteの筆者のようにフォロワーが多い問題提起系のアカウントに立て続けに引用リツイートやメンションを飛ばされると、面白半分に集まってきたアカウントたちから「叩く対象」として認識されるという現象が起きます。いわゆる「犬笛」というものです。これは直接彼(または彼女)が何かした、というわけでありませんが、この「叩いてOK」認定が出ると何が困るかというと、(女性アカウントなら身に覚えがあるかもしれませんが、)男性器の画像や動画などが知らないアカウントからいきなり送りつけられたりするのです。今回はまさにその火種となり、そういった類の姑息な嫌がらせが連日私のもとに届きました。この点については直接彼(あるいは彼女)が悪いとは思いませんが、このような経緯も相まって私は、「もうわたしに関わらないでほしい」という気持ちでブロックしています。

次に、この文章を書く上で時間と労力を要した理由は、これまでの当該noteの筆者の言動から「対等な議論」ができる状態にはない判断したためです。ここから述べるように、そもそも私は光本氏となんの関係もありません。お会いしたこともなければ連絡先も知らないですし、当然直接連絡を取ったこともない。それは私の口からも伝えたかったですし、「何も発信していない」という彼ら・彼女らの主張が事実に反する証拠も持っていました。しかし、発端となったnoteを含め、彼(あるいは彼女)の発言は「相手を攻撃するために集められた情報の継ぎ接ぎ」としか思えず(これまでに私が発信しているnoteや、受けたインタビューを見れば、内容が誤りであると分かる部分も多いはずです)、そのようなやり方で好き勝手に継ぎ接ぎをする方に対しては、わたしが証拠や立場をいくら真面目に説明したとしても、丁寧に読んで、理解してもらえる確信が得られませんでした。わたしが事実関係を説明したとしても、その中でネタになる部分を切り取られて拡散されたり、言葉尻を取られたりして、結局ネタとして消費されるだけかもしれない、という大きな恐怖心がありました。そもそもnoteの主張の誤りを否定する前に、「何を言ってもまともに取り合ってもらえないのではないだろうか」という絶望感が先に来てしまい、筆が進まなかったのです。彼(または彼女)のこれまでの振る舞いを見ていると、対話の可能性は開かれていないと思い、自分を説明する機会も、わたしの言葉さえも奪われたような気持ちを抱えていました。

これまでを振り返って苦しかったことについて

私は一年半ほど前から、意を決して社内外に対して業界のホモソーシャルで男性中心的な現状を変えるべく、スタートアップ・VC業界のジェンダーギャップに対して声を上げてきました。誰よりも考え、マイノリティの声に向き合い、手を打ち、努力をしてきたと自負しています。学び、耳を傾け、考え、発信し、声を上げ、新たな取り組みにチャレンジする。まだまだ不十分な部分ももちろん多いですが、これをずっと繰り返してきました。わたし自身も年齢性別ともにマイノリティとして業界内にいる身であるがゆえに、正直傷つくことも大いにありました。それでもこの問題に対し、課題意識を持つだけでなく、解決に向けて誰よりもパッションを持っています。この業界でずっと挑戦していきたいからこそ、ジェンダーギャップは必ず向き合い解決されるべき問題だと思って必死に取り組んできました。

一方で、変化を求めてアクションを起こすこと、声を上げることは、たいへんな勇気が要求されます。冷ややかな目で見られるかもしれない。業界の方々から背中を向けられるかもしれない、キャピタリストとして受け入れてもらえないかもしれない。いちVCとしては、男性が多いスタートアップコミュニティでフェミニストを名乗って活動すること自体が、ソーシング力や投資業務にネガティブに働くかもしれない。このように、声を上げるときにはいつも、変化を切望する気持ちと大きな不安とが隣り合わせにありました。オフラインだけにとどまりません。真摯に向き合っても、SNSでは炎上したりやたらに叩かれるかもしれない。言葉尻を取られて非難されるかもしれない。むしろ、今の日本では、どれだけ頑張っても結局自分が嫌な思いをするだけで何も変わらないかもしれない。いつだってそんな恐怖を背背負いながら挑戦してきました。どれだけ恐怖があっても、この課題の解決に、本気で向き合う覚悟と熱意を持っているからこそ、日々声を上げ、変化を求めて活動しています。実現したい未来のため一心不乱に働く起業家・投資家の方々や、人生をかけて打ち込んだものがある人であれば、この感覚に覚えのある方も多いのではないでしょうか。また、自分が偽装だと言われたりエセもののように扱われることに、どれだけ憤りを感じるかも、ご理解いただける部分はきっとあると思います。

一方で、先陣を切って進むことは、サンドバッグになることを意味します。自らが先陣を切って進むより、後から揚げ足取りをした方が楽に優位に立っているような感覚を得られるからです。私のツイートやnoteなどの発信、インタビュー記事等には毎日のように、罵倒し嘲る言葉が届きました。DMを閉じていても、わざわざメンションをつけて送ってきたり、引用リツイートであれこれ言われたり、たくさん嫌な思いをしました。「死ね」みたいなわかりやすいものが届くことはめったにありませんが、「若い女」であることを理由にただバカにしたり見下したり、自分の生活のうっぷんを晴らすためだけに書かれたような言葉が、この一年間ほぼ毎日のように目に入りました。月並みですが、本当に悔しかったし、落ち込んだり泣いたりすることは数え切れぬほどありました。それでも、この課題の解決に人生をかけて取り組まなければならない、この変化を起こすことが業界全体はもちろん社会を良くすることに繋がると心の底から信じてアクションを重ねてきたのです。私の身近な人であれば、私がどれだけ苦しい思いをしても、腐らずにここまできたと証言してくれると思います。

それが、今回あのような形で、変化を起こすために積み上げてきたものたちを、貧相で偏った断片的な継ぎ接ぎの言説によって暴力的に引きずり降ろそうと何度も何度も執拗に絡んでくる人がいるというその事実に、そしてそれをさも事実かのように拡散しバッシングする二次加害の多さに、一度も折れなかった心がはじめて音を立てて崩れ落ちるのを感じました。「頑張ってきたのがほんとうに馬鹿みたい」と。これまでどれだけ傷つこうと揶揄されようと、業界内でのホモソーシャル的な空気やそれにより誰かを傷つけようとする害悪を少しでも変えたいと必死に努力してきたと自信を持って言えるし、少しずつ変化したり後退したりする様子を横目に、必死にもがいてここまで駆け抜けてきたのに。傷つけられた人たちのためにも、今の自分にできることが少しでもあるならと必死に戦ってきたのに。あまりに恣意的に情報をつなげ、かつ推測に基づく悪意を感じざるを得ない批判を試みる人間がいること、わたしについては何一つ事実ではない言葉たちを、さも私の「本当の姿」を捉えたかのようにツイートされ、まとめられ、拡散される様子を見て、「なーんだ、私が頑張ってきたのってとってもバカバカしいじゃない。何のために傷つきながら戦ってきたんだ。」と絶望せざるを得なかったのです。

あらためて事実関係につきまして

今回、該当のnoteでは、光本氏と佐俣が直接的な関係があるという前提で批判的持論を展開していました。光本氏と佐俣が、友人関係があるにも関わらず言及しないのは不自然ではないかと。そこまでは、正直分からなくもない批判だと思います。しかし、その矛先は、佐俣が経営しているANRIで働く一従業員である私にも向けられました。記事冒頭もわたしのツイートのスクリーンショットから始まり、タイトルにもわたしの名前がこれでもかと掲載されています。まるで当該事件の関係者、あるいは光本氏と関係がある間柄かのように。

その上で改めてわたし自身の立場をお伝えすると、佐俣のnoteにもあるようにわたしと光本氏は面識がなく、会ったことも話したこともチャットのやり取りをしたこともない、単なる知り合いの知り合いです。同じ業界だから、親しそうな人間関係の中にいるから、と安直に関係性を決めつけて「身内だ」と勘違いしている人がいらっしゃるようです。しかし、私からすれば、「Twitterで見たことある人」程度の認識です。知り合いの知り合いを、私の「知り合い」や「身内」とするのは到底無理筋です。(自分の身近な人に当てはめて考えてみれば、想像しやすいのではないでしょうか。)これだけお伝えすれば、われわれが全く知らない他人同士であることは明らかであり、わたしと光本氏を身内としてまとめることは不可能です。そもそも論調として、「佐伯アンリ氏と光本氏の“直接的な関わり”」をベースに批判的言論を組み立てているのに、突然並列でわたしの名前を槍玉にあげるのは、道理に合わないでしょう。この業界に属する限り公の場での言及の責任があったとするならば、同じようにこの業界にいる全ての女性たちに、あるいはフェミニストひとりひとりに言及しているのでしょうか。なぜ私1人だけを槍玉にあげ、佐俣と同様の直接的な関係者かのようなミスリードを促しかねない書き方をしたのでしょうか。甚だ疑問です。

そして、私が「 “身内の人間”に対して忖度して批判していない」という憶測を理由に、私が本物のフェミニストではないかのように指摘されている点についてにも、異議をハッキリと表明しておきたいと思います。そもそも、資格でも何でもない“フェミニスト”に本物も偽物もあるのでしょうか。いったい誰がその絶対評価の指標を持っているのでしょう。まるで自分が、判定を下せる立ち位置にいるかのような断定的な言説を展開しているのを見かけましたが、他者を一方的に批評し、決めつけ、本物か偽物かのジャッジをする資格など、誰にもありません。当然わたしにも、そして該当の投稿をされていた人にも、今これを読んでくださっているあなたにも、です。

その前提の上で、わたしが何もアクションをしていないかのように断定して批判していたことに対しても、事実と異なる部分があります。事件を最初に耳にした時、まず当然のことながら、痛ましい出来事であると胸を痛めると同時に許されざることだとつよい怒りを覚えていました。しかしこの時点では、まだ記事も出る前の“噂”として私の耳に入ってきていた状態で、光本さん“らしい”という程度のなんの裏付けもない情報でした。わたし自身は先述した通り、光本氏とは何の面識も関係もない間柄のため、想像するにごく一般的な、今回の件を間接的にメディアや言の葉で知ることになった多くの皆さんと同じ立場、同じ距離感の感覚で出来事の受け止めをしていた感覚です。しかし、私が勤めている会社の代表である佐俣は、光本氏と直接的な繋がりがある方な訳です。そこで、佐俣自身のnoteでもあった通り、佐俣にこの噂について問うてみたところ「光本さんのことではないと本人から連絡があった」とわたしは耳にしました。(後日、公式な報道が出た後に、虚偽の報告であった旨の謝罪が光本氏から佐俣に届いたとのことです。)それを受け、確証のない“噂”に対して直接的に関係者でない私が安易に言及すべきでないと思うに至りました。しかしその後、皆さんもご覧になったであろう光本氏の記事がメディアから出されました。その時に初めてそれが事実であったことを、他の多くの皆さんと同じように記事を通じて知った、という運びです。その当時は、担当していたいくつかの仕事が大詰めを迎えており、日々がむしゃらに働いていた非常に忙しい時期でした。そんな中でこの一件があり、スピーディに記事の全文を読み込む時間をその日の早い段階では確保できず、半日ほど経ったところでようやく改めて全貌を理解するに至り、イチ女性として、イチフェミニストとして、そして1人の人間として、当然のことながら怒りや悲しみを覚えました。その時点で、いや、噂ベースの段階から既に多くの批判的声がSNSには広がり続けており、炎上に次ぐ炎上といった様子で、様々な観点から批判的意見やその見解などがTL上に列挙されていました。それを見た私は、今更ながら自分自身が出しゃばって言及をする必要もないと感じ、自分自身が抱いていた批判的意見や違和感、怒りといった感情を明確に言語化し的確にまとめている1本のnoteを読み、非常に共感したことから、まずはそのnoteをリツイートするに至りました。笛美さんという方が投稿されていたnoteです。(ご本人にお名前の掲載許可をいただいた上で執筆しております。)そして同時期に、SNSの外でも実際に周囲の業界内外の方々と、許されてはいけないれっきとした女性蔑視であり資本の暴力だ、と話し合っていました。リツイートが同意を意味するか"不明"、という意見もありますが、わたしは同意および「皆にも読んでほしい」という気持ちを込め、拡散を求めてリツイートしていた、とここで明示しておきます。とくに補足もしていない限り、これまでフェミニズムに関する発信やD&Iに関するアクションを行ってきた私がこの内容をRTするときに「賛同していない」と捉えるのは文脈的にいささか無理があると考えます。また、当時私がリツイートしていた事実については、私が賛同したnoteを書かれた笛美さんご自身もツイートで証言してくださっています。

また、12月に私はとあるアカウントに粘着されていたのですが、そのアカウントがこのようにツイートしていたことからも、私がノーアクションだったとする主張は成り立たないと思います。(このアカウントは削除されてしまったのですが、スクリーンショットを撮っていたので残っていたものです。)

画像1

さらに、私は事件を少しでも軽んじて扱うような言説や発言にはオンライン・オフライン問わず厳しく指摘してきました。SNS上だけでなく、それ以上にオフラインの場では問題だと思ったことに意見を述べる人間です。Twitter上での言った言わない云々で今回のように私の正当性批判の土台を作ること自体が間違いです。私を含む多くの人にとって、Twitterは日常の一部ですが、逆はその限りではありません。

もっと言えば、直接事件とは関係なくとも、業界とお酒の場の関係に対して私はますますシビアに目を向けるようになっています。例えば今年はじめにClubhouseで「港区であったヤバい飲み会の話」という話題が、ルーム内およびTwitterが盛り上がったことがありました。その際には下記のツイートのように警鐘を鳴らしましたし(補足すると、当時盛り上がっていたルームの参加者のみならず、その後Twitterやアフタートークで盛り上がっていた方々の中には親しい人も尊敬する方々も大勢いました)、場をしらけさせるだけでなく仕事の人間関係に悪影響を及ぼす可能性がありつつも、誰かが言わなければ、と思ったら勇気を持って伝えるようにしています。

「内輪非難をしない」わけがない

そもそも、わたしが内輪を非難しないという主張自体、的外れだと思います。私がこれまで、業界のジェンダーギャップやダイバーシティに関するる変化を求めて声を上げ、発信する上で、社内、そして業界内への批判は不可避でした。誰かが言わなければいけない、と思ったときには、社内に対しても親しい人でも目上の人でも指摘してきた過去があります。(一方そういったわたしの姿勢を冷ややかな目で見ている人がいるのも知っています。) また、私がツイートするとその内容に脈絡なく「カンファレンスの男女比率に文句言うのやめろ」等の反応がつくことがある点からも、業界内に対して批判をしていると認識している人は少なくないはずです。

カンファレンスにまつわるあれこれや、業界の"ノリ"についてなど、わざわざ事例を出すまでもありませんが、私の持っている違和感を他の誰も言えていないかもしれないと感じるときや、正しく問題点が整理/指摘されていないと感じたとき、またわたしの考える問題点を提案したり経験/思いを語らねばと思ったときには、Twitter上では打てば響くように返ってくるミソジニーに恐怖を覚えながらも、相手が同じ業界の先輩であろうと、発信してきました。

上述したように、わたし自身が賛同する批判記事をすぐにRTしたり、その後も警鐘を鳴らしたり、イベント等でもスタートアップ業界の問題点として指摘したりしてきているのにも関わらず、光本氏の事件に対して「わたしが主体的に批判する発信をSNS上でしていない」ことの一点を理由に、「江原は親しい関係にあった光本氏の事件にはコメントしない」と誤った前提を元につめより、私のフェミニストとしての"正当性"(そもそも私が真のフェミニストであるかを天秤にかけるような行為自体が眉唾物ではないでしょうか)に疑念を投げかけるような行為には、言葉にならないほどの、心からの強い怒りを感じざるを得ません。わたしに投げかけられた言葉のチョイスや主張は、すべて心外なものばかりな上、論理も飛躍していますし、どこから整理したらいいのかわからずここまで一ヶ月弱の間、頭を抱え、心を病むまでに至ったのです。親しい関係にあったという証拠も、面識があったという証拠もどこにもないですし、佐俣が友達だから江原も近しいだろう、くらいの雑な印象論だったのではないかと思います。そもそも、尊い1人の命が失われた痛ましい事件において、このような形でコンテンツのように面白おかしく他者をあげつらい記事にすること自体、正直に申し上げると真っ当な倫理観のもとで発された批判だとは私には思えません。もしくは、先に挙げた、以前わたしに粘着していたアカウントが、わたしと光本氏を「親しい関係にある」とツイートされていましたので、もしかするとそれをご覧になって勘違いをされたのかもしれません。しかし、それであったとしてもまた同じように匿名のアカウントによる何の確証もない推論的な1ツイートにすぎません。それを事実かのように受け止めたのであれば、他者を名指しで槍玉にあげて批判する以上、ファクトチェックは行われるべきでしょう。どちらにせよ、面識のない人間と「親しい関係」という前提で話を進められると、おおよそその後の言説は説得力を持たないと思います。

つまり、わたしが「①内輪である光本氏に対して」「②(身内だからと)忖度をして非難していない」ゆえに「③偽装的フェミニスト」いうのが該当noteの筆者が再三主張している意見のようですが、それぞれを改めて再整理していきたいと思います。

まず①について。先述したようにわたしと光本氏は知り合いの知り合い程度で、わたし自身はお会いしたことすらない関係性ですから、内輪と断ずるのは苦しいですし、仮に外野から見て身内に見えたとしてもそれは当事者からすれば実態を反映していないことになります。②については、事件に関してはわたしの感じていた批判をまとめているnoteをRTしていたり、その後もオンライン・オフライン問わず警鐘を鳴らしている事実があります。そもそも私は忖度して非難を避けるということをしない人間です。私を少しでも知る人間なら、あるいは少しでもインタビューの記事等に目を通しているのであれば、この点は明らかだと思います。また、先述したように、そもそも当事者以外の他者が何についてどのタイミングでどう発言するのか/しないのかを、第三者が強要する権利など誰にもないということも改めて明記しておきたいと思います。そして、その強要は時に暴力にもなりうるほどの危険性をはらむ物だということも、うつに苦しんでいるわたし自身の現状を元にお伝えしたいと思います。そしてに③ついてですが、そもそも他人がなんの権限を持ってわたしを「偽装的フェミニスト」などとジャッジするというのでしょうか。わたしが高校生の時にフェミニズムに出会ってから今まで、わたしは1人の人として、そして女性として、さらにはキャピタリストとして、フェミニズムを学び実践し続ける学徒であり、属性を問わず誰もがありたい姿でいられる社会を目指そうと志す、ひとりのフェミニストです。今までもフェミニストを名乗ってきていたし、そしてこれからもフェミニストとして胸を張って生きていく所存です。(ただ、ポストフェミニズム的な主張には賛同しない部分が多いですし、私はネオリベラルとしてレッテルをはられることは拒否します。これまでの私のnote等をみれば、私がそれらとは遠い価値観を持っていることがわかるでしょう。)

圧がかかっていたのでは、という指摘について

また、8/11の佐俣からのnoteには次のような一節があります。

「まず、ご指摘されている光本さんと佐俣は旧来の友人です。当該事件がソーシャルメディアで彼が関係しているのではないかと騒がれた際も、個別に連絡して事実か否かを確かめました。
その際に彼の口から「光本のことではない。」と否定する旨の連絡をもらいました。(後日虚偽の報告をした旨の謝罪を光本さんからされています。)
それを社内、つまり江原にも共有した上で、私も「デマである」という旨のツイートをしてしまったため、彼女にも混乱が生まれてしまいました。
https://twitter.com/Anrit/status/1336168196995309570?s=20
最初に明らかにしておくべきことは、この江原が発言しづらい状況を生み出したことの責任は私にあります。江原は、その後事件について厳しく指摘するnoteをシェアしております。なお、このRTは現在元ツイートが削除されているため見ることができませんが、当RTの存在に言及するツイートもあり、RTがないという批判は事実と異なります。」

この中の「江原が発言しづらい状況」という部分に対して、社内等から圧があったのではないか、と指摘する声をいただいています。上述の内容と重なりますが、こちらについて明らかにしておくと、圧や忖度云々の話でなく、事前に耳に入っていた「光本さんではない」という本人が言ったとされる情報を確かなソースだと思いつつも、周りの人に真偽を聞いたり聞かれたり、SNSを見る中で情報が錯綜していたために、「何が真実か不明」な状況が長く続いていたのが原因です。問題を指摘したり声を上げようにも、推測に基づく不確かな情報を元にはツイートのしようもないことを、発言しづらい状況、と表しています。本件について誰かから「言及しないように」といった連絡や圧がかかったことは一切ありません。むしろ、私はアンリさんの親しい人についての批判であっても、間違っていると思ったらきちんと伝えるようにしています。圧があったに違いない!とするのはお門違いですし、当事者からすると、何を狙ってそのような言説を繰り返し発しているいるんだろうと逆に不安を感じられるほど、実態とはかけ離れています。

声を上げること

フェミニストを公言していると、そうでないときと比べて「これについてはどう思うんだ」といったものが多く届きます。所謂「whataboutism」と呼ばれたりなどもする論法です。つい直近でもこんなものがご丁寧にメンション付きで届きました。(フォロワーですらありませんでした)

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そもそも、先述した通り、何に声を上げるかは基本的に当人に委ねられるべきです。そもそも、何かが起こった時に、情報を集め考え、その上で声を上げるという作業自体がかなり負荷が高く、ことジェンダーやフェミニズムに関わるトピックでは、どこからともなくミソジニーや侮辱的なコメントが届くまでがセットになりがちです。それらを最小限にするためにも、最新の注意を払って言葉を選び、論理が破綻していないか確認し、どうしても遭遇してしまうであろうミソジニーアカウントからのコメントに怯えながら、声を上げるのです。声を上げるのは本当に、本当に、大変な作業です。とくに、このトピックに、女性の側から声を上げるのはこころを消耗する作業なのです。声を上げていないことは、必ずしも黙認を意味しません。メンタルの調子が万全ではないときや、多忙な時にはツイートを控えることが私もよくあります。粘着されたあとや、直近で中傷や侮辱するようなコメントを立て続けに見てしまったようなときにも、わたしはツイートできなくなるときがあります。ほかにも例えば、最近だとオリンピックの間は忙しさも相まって、思うことは山ほどあれど、批判するツイートをほとんどしていません。「これに声を上げないとおかしい」という主張は、個人的には無意味だと思っています。そういう気持ちを抱く場面があることは想像はできますが、それを強いるのは間違っていると思います。そもそも、われわれのそれぞれにそれぞれの生活があり、仕事や学校で忙しかったり、家族やペットの面倒を見たり、試験前だったり大事なプロジェクトの山場だったり、その人の先にはその人の生活があります。にも関わらず、これに声をあげないのはおかしい、と決めつけ批判するのはあまりに想像力を欠いています。

また、冒頭の話と重複する部分もありますが、私はこれまで、どれだけD&Iにパッションを持っていても自分にできることには限界があると早々に感じていたので、いろいろな方に相談にのって頂いてきましたが、業界の外の人から「キラキラした人や色んな意味で派手な人が目立ちやすい業界だから、ダイバーシティとか、セクハラとかに対してどんなスタンスなんだろうねとやや不信に思っていた」「キラキラの業界で新しいネタとして、ブランディングのためにやっていると思っていた」と言われてきました。傷つきながら声を上げてもそんなふうに思われていたと思うと、やっぱり辛いものがありましたし、こういった言葉が頭をかすめ、ツイートするにもいつも以上に心を鋼にしなければいけない時もいました。直接言われたときには流石に狼狽しましたが、同時に、だからこそ、イメージを変えるためにも、そんなイメージを持たれる業界で切磋琢磨する女性やマイノリティが働きやすく、やりたいことを100%の力でで羽根を伸ばして取り組める社会を目指して声を上げてきました。フラットに疑われたり、日常的に「異常者」「クソフェミ」「綺麗事でブランディングしているだけ」と言われながらここまできているわけです。毎日言われていても、毎日傷つくものですね。

業界の構造により生ずる問題

今回の事件は、女性蔑視を根底に持つ、スタートアップ業界の方が起こした問題であるとともに、女性蔑視を内包した業界構造にも大きな問題があるとも考えられます。女性蔑視、といってもピンとこない人もいるかも知れませんがぜひこれを機に色々調べてみてください。そして、それらがいかに日常のあちこちに、一見無害そうな形で存在しているかを学んでほしいです。これまでに私のnoteでもアンコンシャス・バイアスについてや、ポジティブアクションを実施した大きな背景等について言及しているのでそちらも併せてぜひ。

今回の事件の一端には、男性優位社会的な側面が強く残るスタートアップ・VC業界の構造もあると思います。事件の根底には、業界の構造があると考える人は少なくないはずです。であれば、本来何らかの声明や対処を求めたり、ガイドラインを作ったりして公式に再発防止を率いるべきは業界側であり、いろいろな機関やグループがありますから、そちらに意見を送ればいいと思います。また、そもそも今回の事件には当事者がいるわけですから、それらを超えて、面識のないわたしに「何も発信していない」「ゆえに偽装フェミニスト」とするのは、正義を実現したいというよりは、やはりなにか別の意図を感じます。

フェミニストとして、これからも

誰が信じようが、あるいは信じまいが、私はこれまでもこれからもフェミニストとして生きていきます。日本ではフェミニストを名乗ることすら容易ではありません。すぐに「ツイフェミ」「異常者」「ブス」などといった揶揄する声や罵詈雑言が飛んできます。それでも私は、まずは業界のジェンダーギャップの是正に向けてアクションを続け、それが社会へのインパクトに繋がると信じています。そして、性別等の属性をとわず、平等に扱われ、誰もが、自分らしく、十分に与えられた選択肢の中から主体的に選び取り、挑戦したり休んだりしながら、その人らしくあれる社会を、フェミニズムを通じて実現したいと思っています。

正直今回、偽装的なフェミニストであるかというテストを強制的に受けさせられ(その"テスト"自体も、テストできるという前提自体も、個人的にはまったくもって意味不明に思えますが・・・)、本当につらい思いをしました。フェミニストを名乗ることすら侮辱の対象になる社会で、「女性の声の代弁者であった江原ニーナ氏が、突如としてテキーラで女性を死なせるような立場にまわる、そんな恐ろしい"罠"みたいな「偽装的フェミニスト」をどのようにして見抜けばいいのだろうか?」(原文ママ)とツイートされたときには、あまりの怒りに立っていることもままなりませんでした。本当に憤ったときには、声も出ないし感情が過度に抑制され何も考えられなくなることも学びました。証拠もなく、入念にリサーチもしていない中で、自分の仕立て上げたい「江原ニーナ像」を実現するために、ちょうどよさそうな情報を集め、強い言葉をつかってこき下ろそうとされた、という経験は本当にトラウマになりました。noteを含め一連のツイートも、削除し、正式に撤回及び謝罪をしてほしい、と思っています。

しかし一貫して言えるのは、他人のアイデンティティは他の誰にも奪えないということです。何かに人生をかけて打ち込んでいる人なら、その人のコアとなるものやアイデンティティは、誰からも奪えないものだとわかるでしょう。それが剥がされようとするとき、大きな痛みと苦しみを伴いますが、その人が強く信じるもの、私にとってはその一つがフェミニズムですが、私からフェミニストというアイデンティティは奪えないのです。

家父長制

私からブロックされたことをきっかけに、noteを書いた、とツイートされているのを拝見しました。私自身はそういった理由でnoteを書くことはありませんので、何故そうなったのかわかりませんが、「自分が質問をしていたのに、回答をせずブロックされた。だから非難するnoteを書く」という思考回路は、それ自体がかなり家父長制の色を帯びている点は指摘しておきます。
フェミニズムの専門家の江原 由美子先生の記事、「「ミソジニー」って最近よく聞くけど、結局どういう意味ですか?」の中に、ケイト・マン著の『ひれ伏せ、女たち ミソジニーの論理』の主張をまとめた次のような箇所があります。

家父長制秩序の下では、男性は、「自分は、女性から何等かの『奉仕』を受ける『特権』がある。だから『奉仕』しようとしない女性に対しては、罰を与える正当な権利を持っている」という無意識の規範意識を、もちがちになるのである。この「無意識の特権意識」に基づく、家父長制秩序に従わない女性に対する「処罰」行為こそが、ミソジニーだと、著者は言う。

今回、私は突然Twitterで正体不明のよくわからない、しかも以前私のTwitterを不用意に引用したり、特定人物への攻撃に一生懸命にも思えるような言説を繰り返し発信しているという印象の人物から、立て続けに絡まれたことで不信感からブロックをしたわけですが、これは彼(または彼女)からすれば私が正しい「奉仕」をしなかったという事態であり、よって罰を与える正当な権利を行使してあのようなnoteを書いた、という構図です。

本人も、わたしと光本氏にはなんの関係もないことや、わたしが適宜ツイートしていたことは(ツイートを遡られたとおっしゃっていたので)おそらく知っていたのではないでしょうか。また、批判すべきはわたし個人ではなく業界全体の構造であり、それを解決するためにはわたしに対して情報の継ぎ接ぎで攻撃したところで社会はいい方向に変わらないときっとどこかで分かっているはずです。にもかかわらずあのような憎悪に満ちた記事やツイートを振りまくことは、「自分は罰する権利がある」と思っていることの裏返しとして理解することができ、ゆえにこれは家父長制下のミソジニーであるとわたしは受け取りました。

とすると、今回書かれたnoteは、単にわたしに対する攻撃であるだけではなく、変化を求めたり社会を良くしようと声をあげるあらゆる女性への脅威として捉えられるべきです。

変化を求める運動と知的探求への脅威

私は高校生の時からジェンダーやフェミニズムを勉強してきました。社会にはたくさんの負があり、それらへのアプローチ方法も様々です。その中で、「スタートアップ」という手段と同じくらいの熱量で、私はフェミニズムという学問を継続的に学ぶことや、その学問のこれまでの蓄積を参照し続けることにより、社会問題を可視化・言語化したり解決したりしたいという思いが強くあります。

社会の変化を求める上で、多くの人は、先人の試みや蓄積の学習や、そこから生じる知的探求のプロセスを大切にしていると思います。問題に真摯に向き合う中での、アカデミアや、現場での学びなど様々です。今回の件に照らし合わせると、フェミニストに対して偽装か本物かを判断しようと独自の基準で試みたり、相手からの返答をおよそ当然のものとし、それに応じないものは内容の真偽がどうであれnoteで批判するという行動は、フェミニズムの蓄積を捨象する行為であり、「社会を変えようとするアクションへのバックラッシュ」や、学びや知的探求への脅威とも言えるでしょう。

さいごに

この件で、私はこれまでにないほど落ち込んでいます。反論できるけれど、したところで餌になってしまうだろうという不安感、拡散されわたしの努力が無駄になるだけでなく今後のアクションも阻まれるのではないかという恐怖、今回スルーしてもまた半年後くらいに再燃するかもしれないという絶望(そもそも本件も、去年の12月にこのトピックで粘着されるようになったのが発端でした)。

あまりに落ち込んで、毎日眠れなくなり思い出すとトラウマで涙が出てくるようになり、鬱を再発し、私はインターネットに向いていないのかもしれないとも思いました。でもよく考えてください。嫌がらせをされたら傷つく。本人は嫌がらせではないといくら言ったとしても、嫌がらせは嫌がらせです。それも人をうつ病に追い込むほど、時に悪質なものとなりえます。質問やコメントを装って悪意を投げつけてくる人には当然気付くし頭にくる。嫌なことをされたら嫌、それだけが真実です。最初は、「大人の対応をしなければ」「無視して気にしないふりをしなければ」と思っていましたが、果たしてこの状況下で大人の対応をする必要があるのでしょうか。それが“大人”なのでしょうか。推測で記事を書かれ、嫌がらせをされて傷ついて、泣いて、落ち込んで、もうこれまでの努力も我慢も馬鹿馬鹿しいとすら思った。これが相手の望むところだったのかもしれません。でも、そんな人を許してはいけない、声をあげる人を推測で叩いて潰そうとする人を、「どうしようもないからね...」と分かったようなふりをするのは社会の前進を阻む行為だと思います。

あらためて、今回書かれたnoteは、私からすればすべて見当違いな内容でした。業界団体に向けて書くならまだしも、関係のないわたしに向けて名前をタイトルに入れた記事を書くというのは、間違った現状を正したいといった正義感ではなく、憎悪を感じざるを得ません。佐俣のnoteで事実関係は整理されたと思っていましたが、まだ伝えるべきことがあると思い今回のnoteを書くに至りました。自分があのように蹴落とされるべき存在ではないことは、本記事で証明できたと思っています。冒頭の繰り返しになりますが、今回のnoteは、わたしが主にわたし自身の気持ちの整理と、わたしの身の回りの人に向けて書いたもので、反論を目的としていません。つきましては、こちらのnoteへのいかなる反論もご遠慮ください。万が一同様に応対を求められ続けたとしても、拝読及び返答しない方針でございます。またTwitter等SNSからは当分ログアウトさせていただく予定です。当該noteの筆者様、および周辺のアカウントの方々におかれましては、今後一切わたしに関わらないでいただきますようお願いいたします。お時間頂戴し、本当にありがとうございました。


ワーイありがとうございます!