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キッシュが冷たくなるまえに【第32話】

「ほんとだね、車で来なけりゃ飲んでるんだけど。今度自宅で作ってワインと合わせて食べてみるよ。オレンジソースレシピはうろ覚えのところかあるけど、ネットや本で調べたりして作ってみるのも楽しいかな」
 まぁマグレ鴨はだいたい冷凍で通販でも簡単に手に入るし、フランス産じゃなくハンガリー産だとちょっと安くなる。香りづけのためにコアントローやグラン・マルニエを一本買うのがバカらしいなぁ。あとの材料はスーパーでも手に入るのでいつでも作れる。そんな妄想にふけりながら、二切れ目の鴨肉を切り始めた。
「ワインはどうでした?満足していただけたかな?」
 ふいに凪人の声が聞こえてナイフをとめると。凪人は笑顔ではるかさんと美穂に話しかけている。
「これポイヤックなんですね、私実はソムリエ見習いなんですよ。まだまだ勉強中の身で、こんなワインはなかなか飲めないので貴重な体験をさせていただきました。どうもありがとうございました」
 はるかさんは深々と頭を下げている。
「いえいえ、ソムリエ見習いなんですか、よろこんでいただけて光栄です。ところでこの三人のつながりはいったいどういう関係で?こちらは翔太のお姉さんでしょ?」と凪人は左の手の平を上に上げて美穂の方に向けた。

「姉の美穂です。翔太がお世話になってます。信用金庫に勤めています。もちろん独身で彼氏いない歴三年です」と余計な独身アピールをして、凪人が苦笑をしている。
「私は深沢はるかと申します。知っているかどうかわかりませんが、ここから2キロほどケヤキ通りを下ったところにあるカフェ・セント・ミカエルに勤めています」
 凪人は驚いた顔で「おぉ」と声を漏らして「存じ上げてますよ、女性がやっているカフェで、フランスのカフェを忠実に再現してる店ですよね。一度行ってみたいと思っていたんです」
 凪人はそういって腕を組みうなずいた。
「ワインもおごってもらったから正直に言うけど、俺たちミカエルから競合店舗の調査に来てるんだ。ミカエルの客の一部がこちらに流れているので、それを調査に来たんだ」
「なるほどねぇ」
 凪人はそう言って片手であごひげをゆっくり撫でながら、左上の天井のほうを見つめている。
「で、なんでお前とそのカフェが関係あるの。たしかお前飲食は辞めてるはずだし、また飲食に戻ったのか?」
 凪人は急に前のめりになり、僕の顔をまじまじと見ている。
「今は僕は旅行代理店で働いていて、ミカエルの調理人が事故でしばらく仕事ができない状態なんだ。その人が姉ちゃんの友人で、姉ちゃんから頼まれて週末だけキッシュを焼くバイトを始めたんだ」
「ほう、それで」
 凪人は再び腕を組んで、右手の人差し指を何度も上下に動かして話をきいいている。
「で、ミカエルのマダムから、夜の客の一部がここに奪われているって相談されて、じゃあちょっと実際に行って調査しようということになり、それから対策をたてようということで我々三人が今晩ここにいるって訳だ」

「なるほどねぇ、そういう訳でお前は今日ここにいる訳ね。しまった、ワイン奢るんじゃなかったな」
 そう言って凪人は大きく笑った。
「で、翔太、お前から見てこの店はどんなふうに見える?忌憚のない意見を聞きたいな。ちょっといいワインを奢ったからそのくらいは聞いてもいいだろう?ちょっと忙しくなってきたから、またあとで聞かせてくれ」
 そう言って凪人はコンロに戻っていった。

「ついにバラしっちゃったね、でもいいよね」
「ワインを奢ってもらってますからね。こちらの正体をばらさずに帰るのは気が引けますよ。翔太さん正解です」
「ありがとう」
 そう言って僕は鴨の切り身の上にをオレンジの身の部分をのっけて口に入れた。オレンジがプチプチ潰れる食感と、柑橘の甘さ酸っぱさにバターのコクのあるソースが舌の上で広がり、コアントローで補強されたオレンジの香りが鼻腔をぬけてゆく。あぁ、ここにワインがあったら、もっと楽しめるのに。次回は必ず飲もうと心に誓った。
 はるかさんはワイングラスをくるくる回して、中の赤ワインに空気に触れるようにして味わいや香りを変化させている。
「ワインが開いてきましたよ。香りがちょっと変わってきました」
ワイングラスに顔を近づけて香りを嗅いでいるはるかさんに、美穂は「ちょっと嗅がせて」と言ってはるかさんのグラスの中の香りを嗅いで、自分のワイングラスの中の赤ワインと比べている。
「はるかちゃんのグラスのほうが甘い香りがする、比較するとわかるね」
 そう言った美穂は、はるかさんのまねをしてゆっくりと自分のグラスを回し始めた。グラスの中のワインは、大きく波をうってグラスからこぼれそうになりながらなんとか持ちこたえて、グラスの中で変則的なリズムを刻んで回っている。
「なかなか上手く回せないもんだね。くるくる綺麗に回せたら私の女っぷりも上がるかな?」
 美穂は回したグラスの手をとめて、冗談めいたため息まじりにそうつぶやくと、一気にグラスのワインを飲み干した。
「女っぷりがあがるっていっても、レストランとかワイングラスがある場所だけじゃ効果が限定的すぎない?」
 僕はそう言うと、はるかさんはナイフとフォークをおくと、こちら振り向いた。テーブルの下で、はるかさんの左膝が僕の右の太ももに直接あたり、はるかさんは驚いた表情をして頬を赤く染めている。
「あっ、すいません」
 そう言ってはるかさんは視線を下に向けた。瞳が心なしか潤んでいるような気がしたのはワインのせいかもしれない









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