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【小説】キッシュが冷たくなるまえに(第9話)

 誰もいないキッチンで、明日の朝からのキッシュ作りの準備に取りかかり始めた。窓の外ではコオロギの鳴く音がかすかに聞こえている。

 今晩やることといえば生地づくりのみ。無塩バターは先ほど冷蔵庫から出して常温に戻しておいた。バターが固いと生地にほぐれずらいのだ。大きなボウルにふるった薄力粉、グラニュー糖、塩を入れて小さく切った無塩バターを放り込んで混ぜていく。バターを細かくそぼろ状になるように握る。薄力粉は300gほど、無塩バターは200gも入っているので、手がバターでぬるぬるだ。あまり気持ちがいよくないが我慢で捏ね続ける。

 いい感じになったので、ボウルの中心にくぼみを作った。そこに卵黄と水を少々注ぎ込んで、一気に素早くザックリ混ぜ合わせる。捏ねたり引き延ばしたりしないように気をつけながら、ちょうどボソボソするかなくらいでストップした。手にまとわりついていた生地を、両手を擦るようにそぎ落として、生地をボールの底に押し付けて圧縮する。あとは生地を一まとめにしてラップで包み、一晩ほど寝かせれば完成だ。

 ラップで包んだ生地を冷蔵庫に入れてとりあえず今晩の仕事は終了。生地を伸ばしたり、タルト型に入れて焼くのは明日の早朝の仕事で、明日は早起きして作業に取り掛かる。

手を洗い、蛍光灯を消すと、窓からきれいな三日月が見える。

 静かな夜にひとりキッチンでバターと小麦粉に戯れる。短い時間だったけど、無心に気持ちよく作業を進められた。本来ここにいるべきなんだろうなぁと思う。元に戻ってやりなおす勇気も気力もないが、もしあの時違う判断をしたなら、今頃どうだったかなと時々思ったりする。月夜はなんだかセンチメンタルな気分になってやるせない。ちょっと窓を開いて思いをまぎらわそう。

 コオロギの鳴き声とひんやりとした空気がキッチンに流れ込んできて、思いのほか肌寒い。パーカーを羽織って、グラスの収納棚の奥にしまいこんでいたオールドファションドグラスを引っ張り出してテーブルに置く。クリスタル製の底厚で重量があり、切子のデザインが入った男らしいグラスだ。丸い氷をいれてロックで飲むのに使うグラスといえばわかりやすいだろう。父が飲んでいるスコッチウイスキーをストレートで少々注ぐ。琥珀色の液体がグラスに入ると、周囲は上品な花のようなフレーバーで満たされ、スぺイサイド産のちょっと上等のシングルモルトとわかる。

 こんなやるせない夜は、ほんのちょっとだけウイスキーの酔いに身を任せて眠りにつきたい。しばらく窓明かりの三日月と虫の鳴き声でウイスキーを楽しみ、自室に戻った。
 







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