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女風ダークアカデミア 第一話 クレオパトラの夢 8

 カーナビすらない古い車で、初めての街を運転するのは気を使うものだ。まだ初心者マークの若造には、夕暮れの視界の悪さと、帰宅渋滞によるストップアンドゴーは、神経をすり減らす作業以外の何物でもない。ましてやマニュアルシフトの車だったらなおのことだ。クラッチを切ってギアを一速に入れて半クラッチでゆっくり車を動かして、ある程度車が動き出したらクラッチをつなぐ。スピードが上がっていくとまたクラッチを切って2速に入れてクラッチをつなぐ。さらにスピードがあがると3速4速5速とシフトをアップしていく。もちろんスピードが下がれば渋滞さえなければ楽しい作業なのだが、車の中では、二本の足で3つのペダルを操作して、ハンドルを握り、車速とエンジンの回転数を見ながら、それにふさわしいギアを選んで左手でシフトをしていくのは、思ったより大変だ。エンジンの回転数とギアが合わないとエンジンが止まって急停止をしまうので非常に危険だ。じっとりと汗が滲んんだ手のひらを、ジーンズの太もものあたりでふきつつハンドルを強く握りなおすと、前の軽自動車のブレーキライトがオレンジ色に光って、ゆっくりと車列は動きを止めた。
 赤信号で止まっている間に、朝に買って、助手席に放置しておいたペットボトルの水を急いで飲んで大きく息を吸ったら、歩道の先の看板が目に留まった。
 「antique furniture  secondhand clothing」
 と書いてある。アンティーク家具と古着の店だということは僕でもかろうじてわかるが、街路樹で店名が見えない。身体を左右に振ってみても、残念ながら店名も建物も見ることが出来なかった。信号が青に変わり、ゆっくりと車列が動き出した。僕のプジョーもゆっくりと動きだし、しばらくすると街路樹のすきまから看板が全て見えた。
 「antique furniture .secondhand clothing gothic hall」

 道路に面して数台の駐車場があり、奥まった場所に西洋風の館があった。西洋風の格子窓からは、柔らかいオレンジ色の白熱灯の灯りが燈っている。それを見た瞬間に僕はハンドルを左に切って、吸い込まれるように駐車場に入ってしまった。

 四台ある駐車場には古いボルボのステーションワゴンがぽつんと止まっている。ボディが紫外線で赤色から朱色に色抜けして、かなり使い込まれた感じが、歴戦の勇士感が漂っている。その車から二つ開けたところに車を滑り込ませた。ドアを開くと、冷たい風が車内に入ってきた。街路樹を見ると急に吹き始めた風で大きく揺れていて、赤い夕陽が街路樹の向こうの街並みに沈みかけている。僕は底冷えし始めたアスファルトを入口に向けて歩き始めた。2年ほど前に買った黒いサイドゴアのブーツで、靴墨を塗るのを忘れて艶も油っ気もない甲皮が気になったが、ボルボのボディーの艶の無さを見て、そんなことを気にするのがバカらしくなった。入口のドアの横に「古着、中古家具ゴシックの館」と書かれた小さな看板があり、重そうな木製のドアについている真鍮製のドアをひねると、「ギギギ」と鈍い音をたてて開いた。

 「こんちは」
 元気よく声を出したつもりが、思ったほど声がでなかったみたいだ。僕の声はBGMで流れているバロック音楽でかき消されたようで、店内にはまったく響き渡らなかった。キョロキョロと店内を見渡すと、誰もいない。ダークグレイの壁には大小さまざまな額がたくさん飾られている。楕円の額だったり、スクエアな額だったり、その額の中で描かれている絵のモチーフは、髑髏だったりカラスだったりコウモリだったり毒々しいものか多い。間接照明で照らされたそれらの絵は、黄昏時の雰囲気と相まって不気味さを増している。ここは入口があるだけで、この数メートル先に実質の店舗があるみたいだ。先の方はもうちょっと明るいようで、廊下の先からはもうちょっと明るいヒカリが見える。その灯りのほうに向かって歩きはじめた。

 薄暗い廊下を通ると、古着のフロアだった。窓があって先ほどの廊下よりは明るいが、それでもバーのように薄暗いのはかわらない。高い天井にはアンティークのシャンデリアがあかりを灯しており、宝石のようにカットされたガラスの飾りが光に照らされて、薄暗い店内に時折キラキラと光が反射している。壁沿いに洋服がハンガーにかけられて、ずらっと並べてある。普段僕が行く古着屋と違うのは、ハンガーラックが二段になってなく、一段しかない。物量が少ないので、普通のブティックのようにすっきりとした印象だ。ジーンズやTシャツの類はほとんどなくて、いわゆる僕等がイメージする古着屋さんではなく、中年から上の上品な男女のための古着屋といった感じだ。男性用と女性用に分けられていて、男性用はジャケット、コートのアウター類、シャツ、トラウザーがハンガーにかけられている。
 コートのところに行って、なんとなくいいなと思って手に取ったベージュのトレンチコートのタグを見ると、バーバリーだった。たしかに上品でしっかりとしたコットンで作られていて、僕等が身に着ける妙にデザインの入った、薄くてペラペラのホスト風のトレンチとは違うなと思って、値段も見ずにハンガーに戻した。ジャケットがあるあたりに進んで、さっき見たダークアカデミアのサイトに書かれていたツイードのジャケットを探したいが、ツイードがなんなのかさえわからない。ザックリと編まれた素朴な手触りと書かれていたのだが、たぶんこれなんだろうと思って手に取ってみる。厚手のウールで、ザックリとしたテクスチャーで表面がウールでけばだっているようだ。袖の部分を顔の近くにまで寄せて、まじまじと生地をを見ていると、人の気配を感じた。

「そこにあるのは全部ハリスツイードですよ」
 奥から女性があらわれてにっこりと笑った。
 


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