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女風料理人リウ 

 マグカップを片手に玄関の脇にあるドアを開くと、カビとホコリの臭いがした。ドアの横にあるスイッチを押すと、暗闇だったガレージに明かりがともり、白熱灯の鈍い光がくすんだワインレッドの4ドアセダンを照らしていた。車高が低く、異様に長いトランクのデザインが独特で、テールエンドに向けて緩やかに下がっている。斜め後方から見ただけで、この特徴的なシルエットをしたこの車が何なのかすぐにわかった。ジャガーXJだ。片手に持ったマグカップをそこにあった作業台に置いて、ガレージのスライディングシャッターのロックを外し、シャッターを押し上げると、三月末の高原の冷たい空気が外から入り込んできた。低い南からの日差しがガレージの奥まで入ると、くすんでいる思っていたワインレッドの車体にはメタリックが入っているらしく、日光に照らされてキラキラと輝いて見える。のびやかなフロントノーズに丸目で4つのライト、天井が低く小さい。これらのすべての要因が車の長さ、幅の広さを強調させていて、手足の長いエレガントなファッションモデルの女性のようでもあり、獲物を見つけた豹が、姿勢を低くして獲物に飛び掛かる瞬間を待っているかのようでもある。優雅さと躍動感、二つの相反するものが共存している形がそこにある。ぼくは20代の若輩者ではあるが、このデザインに「ジャガー」という名前をつけた人は見事だと思った。

 「これにミカが乗っていたら、映えるよなぁ」
 ミカが今より若い頃に乗っていた姿を想像してみた。若い頃でもジャガーに乗るミカは魅力的だったに違いないが、若い頃より今乗ったほうが魅力的に見えると思った。控えめに銀色に輝くメッキがフロントグリルやバンパーの端に使われていて、大人の女性のシルバーアクセサリーのようだ。これ見よがしにアピールすることがなく、控えめなほうが何かを饒舌に物語る。
 車体のデザインに直線や角がほとんどなく、のびやかに滑るように伸びてゆく曲線が、女性の身体の線を思い出させる。ドアのノブを引いてみたらドアは施錠されておらず、重みを感じながらゆっくりとドアが開くと、ベージュの革製のシートに木目のデザインのダッシュボード。カーステとクーラー、ATのシフトの周りも木目で、イギリスの貴族の世界観が凝縮していて、そしてどこか淫靡な香りがする。
 「でも、これを20代の男が乗るには勇気がいるよ・・・」
  ぼくはちょっと気おくれをしてドアを閉めた。本革とウッドの空間。そしてジャガーの内装の独特の香りにむせていた。
 「同じ猫科でも、ぼくはあっちが分相応かな」
 そうつぶやいて愛車のプジョーのライオンのマークとジャガーの豹のマークを見くらべる。イギリスの貴族趣味と耽美、そして女豹のような動物的なセクシーさを持つXJと、プラスチッキーでカジュアルなデザイン、吊り目のライトと丸い流線形が、パリの石畳を元気に駆けまわっている子ネコのような206。お互いネコ科だがまったく相反する車が僕の目の前にある。乗るのは明日以降にしてガレージの掃き掃除をし、シャッターを下ろした。カレージの空気はすべて入れ替わって、かび臭さはホコリと一緒にどこかに消えていた。

 冬のような気温のガレージから暖房の効いたリビングに戻ってきた。掃除の続きで、モップで濡れ拭きを始めた。静まり返ったちょっと薄暗い洋館に一人きりで、さすがに何か音が欲しくなった。幸いに腰の高さほどの細長いスピーカーと、CDプレイヤー、ネットワークレシーバーとアンプの一通りのオーディオセットが置いてある。棚にあった数百枚はありそうなCDを見てみると、ほとんどがクラシックとジャズで、唯一知っているアルバムを発見した。

「あるじゃん、クレオパトラの夢」
 見覚えのあるジャケットだった。よく仕事に向かうときに聞いているバド・パウエルのアルバムを発見して、CDプレーヤーに挿入してスタートボタンを押すと、スピーカーから音と空気の圧がこちらに突き刺さるように飛んでくる。カバーのない剥き出しのスピーカーのコーン紙がベースとドラムに合わせて前後に動いている。それに追随するようにエッジのゴムの部分が、伸びたり縮んだりしていて、まるで生き物のようだ。音を出すとスピーカーがこんなに動くもんだとは知らなかった。このゴムの意味ってなんだろうと思っていたが、ようやく理解した。ヘッドフォンで聞いていた時とはまったく違う、生々しいピアノとベース、ドラムの音が空気を伝って吹き抜けのリビング中に響き渡ると、しばらくぼくは床と廊下の拭き掃除に集中した。


 

 
 





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