いま大学やめようと思っている人へ

はじめに

報道に接する限りにおいてですが、このコロナ禍で大学の中退を検討している学生が増えているということを知りました。経済への影響という点で単純に比較するのは無理だとは思いつつ、どことなく9年前の自分と重なるところがあり、今回筆をとりました。

私は2010年に1浪して入った大学を第2学年終了時の2012年にやめています。退学届には、たしか、理由を7つくらい書いたと思います。理由として書いたことでいま思い出せるのは、精神的なものと経済的なもの。精神的なというのは、もともと躁鬱っぽいのですが、震災の影響で鬱の方に振れたままになってしまい、回復するのが難しいと判断しました。経済的なというのは、学費について両親からネチネチ言われていたのが煩わしかったというのが主たる理由です。

今から書くのは、そんな私がやめようか考えていたときに知っておきたかったことです。

大卒って何?

突然ですが、大学をやめることで、あなたが失うものとは何でしょうか。

学校の友達? やめて付き合いがなくなるのなら、その程度の友達だったということで、忘れましょう。では、安定した将来? たしかに、大学を卒業するのとしないのでは、この先の人生は違ってくるでしょう。あなたが「大学をやめようかな」と切り出した途端に、「生涯年収」というバカらしい尺度ににおける「大卒者と非大卒者の差」なんてものを持ち出して、必死に止めにはいる周囲の人間もすでに登場済みかもしれません。とはいえ、大学を出て新卒で企業に入っとけば安心、という時代でももはやないことは、皆さんも薄々気づいてらっしゃるはず。私が問題にしたいのは、もっと確実に、あなたが失うものです。

それは、あなたが大学を卒業する可能性です。単純な話として、学生でなくなれば、卒業することができなくなります。わざわざ言うのが申し訳ないくらい当たり前ですね。

では、その「大学卒業(大卒)」って何なんでしょうか? それは単に大学を卒業することではありません。大学の卒業式でもらうものは何かご存知ですか。ただの卒業証書? ちがいますよ、学位記(もしくは、卒業証書・学位記)です。大学を卒業するということは、学士号(バチェラー・ディグリー)という学位を授与されるということです。で、これが立派な資格なんです。履歴書の資格欄には書かれませんが、純然たる資格と言ってしまってよいでしょう。有るか無いかでは、この先の人生全然違ってきます。

この、学士号という資格は、通訳案内士や第一級陸上特殊無線技士のように、単に技能や知識を持っていて、それをペーパーテストや対面で証明すればいいというタイプの資格とは異なります。どちらかというと調理師の資格や車の免許と似ていて、ある制度の中に組み込まれることによってはじめてその資格が担保されるというようなものです。

教育と教養の違い

ちなみにここでの話は、学問をするのに実験室を必要とする理系の学生には通用しない話かもしれませんので悪しからず。私はいちおう文系でした。

せっかく大学に入ったにもかかわらず、あなたは「大学やめちゃおうかな」と思っている。大学というのは、やけに学費が高いだけでその分の見返りを与えてくれない。オンラインでは国内外の大学の授業を無料で見ることができる。もちろん公立の図書館もある。学費を払うくらいなら、生協にある岩波文庫の棚全部買ってお釣りがくる、いや、ちくま学芸文庫をあわせてもおつりが来る。もうSNSでつながっているそこそこ物知りな人もいる。大学に求めるものなんて、もう何もない。就職はまだ先の話(だと思っている)。ならば、もう、やめてもいいんじゃないか……。

実にごもっともです。しかし、大学というのは教育制度における最も上の機関(= 最高学府)です。こうした権威に対して、背を向けることは何かしらの痛みを伴います。

ここで、少し遠回りをして、教育と教養の違い、という話をしておきましょう。私は大変愚かなことに、ウルフの『三ギニー』を読むまで、教育があることと教養があることのあいだに明確な区別がつけられるとは思いもしませんでした。(*1)

突然ですけど、頭、よくなりたいですよね。知性を高めたい、とか言っちゃいまいましょうか。大学に通うのは知性を高めるためといっても過言でないでしょう。自分自身の価値観を鍛え上げ、なにがしかの対象について「これこそが良いものだ」と理解しそれを正確に言葉で表したい。世の中でおきている現象について正確に把握できるようになりたい。あるいは、たくさんお金を稼げるようになりたい……。

こういった知性というものは、教育とか教養よりも上位にある概念です。教育を通じて知性を身につけることもできるし、教養を通じて知性を身につけることもできるわけですから。どっちのルートを選んでも変わらないといえば変わらない気がする。(*2)

しかし、ここには決定的な違いがあります。この二つの違いを、次の問いから考えてみましょう。教育があるということを他人にわかってもらうことと、教養があるということを他人にわかってもらうことのどちらが簡単か。

早々と答えを言ってしまうと、これは圧倒的に前者です。履歴書に学歴を書けばいいだけですから。いっぽうで、教養があるというということを他人にわかってもらう、というのは凄まじく難しいです。文系の勉強というのは本を読むのが基本ですが、本をたくさん読んでいるだけの人なら、いくらでもます(ここでいう「本」は、映画でも音楽でも美術の作品に置き換えて考えてみてもいいでしょう)。

教養がある、というのは一種の潜在能力にすぎませんが、教育がある、の方は実質的な価値があるのです。

(*1 ちなみに、私のいう教養は本当の意味での教養ではありません。最近はやたらと教養を身につけようとするのが流行っているようですが、教養とは努力して身につけるものではなく、自然に身についてしまうもののはずです。にもかかわらず私はあえてここで教養という言葉を使っています。)

(*2 ここで私がいう知性は、大学人的な知性に偏っています。学問とは無縁の知性もこの世にはたくさんあります。)

大学における学びって?

あなたがいま大学をやめたいと思っている場合、大学に対する幻滅が多少あるのではないかと思います。これは先ほど「学費が高いだけでその分の見返りを与えてくれない」云々のところで述べたところと関係します。加えて、ここからはかなり推測が入りますが、大学生としての自分の置かれた環境に手応えのなさみたいなものを覚えているんじゃないかと思います。受験生の頃は割とストイックに勉強していたけど、今はどこか自分がゆるくなっている気がする、とか。そこにぬるま湯な感じを見出して、自分に鞭打つためにもいっそのこと退学という考えもよぎるのではないかと思います。

そのようなあなたが見落としているのは、大学に進学したことで変化した学びというもののありようです。頑張って本読んで、レポートや論文を書くことがだけが大学の勉強ではありません。

大学における学びとは、プレゼンのためのパワポを作ることだったり在学中に取得を必要とされる英語検定のスコアの獲得だったり名前も知らないクラスメイトにノートを見せてと頼むことだったりつまらない授業でも単位を落とさない範囲でうまくサボることだったり提出期限の1時間前にその存在に気付いた2500字のレポートをソッコーで書き上げることだったり卒業を見据えて確実に履修計画を立てることであったりフル単確約しつつ春休みまでにバイトで10万貯めることであったり就活セミナーの応募フォームのダメさを嘆くことであったり1限の授業なんてなんでとっちゃったんだろと思いつつもあの人に会えるならと前日早めに寝ることであったり授業で程度の低い質問をして教授に鼻で笑われることであったりといったようなことの 丸ごとのことで、これらが大学教育というパッケージを構成しているのです(※3)

(※3 改めてこの原稿を見直してみて、授業がオンライン化されたこのコロナ禍では、こうしたことすら変容をきたしているという事実に私は気づいていませんでした。そうした変容に対しての対応も含めて、私のいうパッケージのひとつであると言ってしまっては、さすがに論として乱暴でしょうか……。とはいえ、大学が提供しているサービスとしての教育の質が低下しているような状況、というのは、いまの大学生には多かれ少なかれ降りかかっているものです。こうした中でも、要領よくこなせる奴はいるし、そもそも大学にそこまで期待していないがためにサービスの水準が下がったところで気にしないという奴もいるでしょう。私はあなたに、どうかヤケにならないで欲しいと伝えたい。それしか言うことができないが......)

これらのことは所属する大学の偏差値にかかわらず、大学生である以上は多かれ少なかれくぐりぬけなくてはならないと思われることで、「教育がある」とは、これらの丸ごとに対して言われるのです。こういったようなものこそが日本社会における大学教育という制度が、学生たちに求めていることなのです。繰り返しますが、ここでのポイントは、大学という制度をくぐりぬけることで、教育があると言われる為には、それだけでいいのです。もちろん、その過程で知性もいくらかおまけで付いているとは思いますが、とにかく、くぐりぬけさえすれば、たとえウェストファリア条約の西暦やその世界史的な意義について何も知らなくても、まったく問題ないのです。

あなたがいま大学生であれば、上であげたようなことは多かれ少なかれ経験してきたかと思います。もちろん、上であげた以外のたくさんのことも経験しているはずです。何となく学生やっているように思っていたとしても、学生であるあなたは意外とすごいんですよ。自信持ってください。なので、やめようなんて思わずに、もう少しだけ、大学で自己の研鑽に励まれることをお勧めいたします……

と私は言いません。なぜか。

パワポ作ってスライドの前でペチャクチャおしゃべりするのが学問なのか? 就活セミナーなんてたいがいくだらないがあんなのにあくせくすることに何の学びがあるんだ?と言ったような立場、言ってみれば、大学という教育制度にアッカンベーする立場も当然あるからです。そして私がまさにそういう人間でした。

社会が求めるのは、教育がある人間です。教育がある人間は制度とうまく付き合える人間で、社会が欲するのはほとんどの場合、制度とうまく付き合える人間です(なんだか、某環境大臣がよくやるような言い回しになってしまった気がするけど気にせず続けます)。

大学からあなたが飛び出した場合、あなたは無職ということになります。時間ができて本を読む量が増えたとしても、学生証を失えばもう「職業」欄に「学生」と書くことはできません。そして、遅かれ早かれ、自分でお金を稼がなければならない時期がやってきます。そのとき、あなたに特別な技能(例えば、GitHubでオープンソースのソフトウェアに貢献していてそこそこフォロワーもいるとか、YouTubeにボカロの自作曲をいくつかアップロードしていてどれも10万回以上は再生されている、など)がない限り、大卒であるか否かが重要になってきます。

私の場合ですと、少しでも割の良い仕事につくには、自分の冴えない語学スキルを活かすのが得策でしたが、「教える系」の仕事はほとんどが応募要件に「大卒以上」と書いてあったため、応募すらできないということが多々ありました。結果、何をしていたかというと、ウェブメディアの裏方とか皿洗いとか駐車場の掃除です。何かしらバイトをするにしても、大卒か否かによって時給で500円は違ってきます。月180時間働いたら9万の差ですから、とても大きな差です。こういう数字を見せられても今はあまり実感がわかないかもしれませんが。

コロナ禍のいま、大学に対して絶望している人や、卒業後のヴィジョンというものが描けない人がいるかと思いますが、ひとまず大学入った以上、とりあえずは学位という「資格」だけ取っておくという選択肢があること、別の言い方をすれば、「卒業して就職」、「卒業して院に進む」という卒業の位置付けではなく「単なる卒業」という卒業のあり方もあるんだということを知っておいて欲しいと思います。これが大学生だった私に欠けていた視点でした。

で、どうすればいいのかという話

入った以上、やめないで済む可能性を探ってみることだと思います。先延ばしに過ぎないかもしれませんが、休学というのもひとつの手です。私も2011年の秋学期は休学してました。休学してもお金が取られるじゃないかという人もいますが、普通に通った場合の10分の1くらいにはなるはずです。「学びの継続」のための「学生支援緊急給付金」には申し込んでいたでしょうか(7月中にこの記事を公開できなくてごめんなさい)。また、自分の関係する自治体や所属している大学が独自に学生に対して給付を行なっていることもありますので、そちらもぜひ調べてみてください。この混乱の中でいきなり辞めてしまうのではなく、まずは考える時間を設けるのがよいです。焦ることはないです。学生なら半年間くらい貧乏旅行にでも行くのもよいでしょうと言えないのが、今回の厄介なところですが。ちなみに、やめても再入学という手が残されている、というのは意外とあてになりません。再入学に期待しながらやめるくらいなら、そもそもやめないことを選びましょう。

学費を出してくれている親などが経済的にもろに影響を受けてしまい、半年経ったとしても先行きが見えないのが目に見えている、という人もいるかと思います。個々の家庭の事情には踏み込めませんので、具体的なことは言えないのですが、ひとつだけ可能性として紹介したい選択肢があります。

日本の大学で、合計706,000円で学位を取れる大学があります。聞いたことあると思いますが、放送大学です。いま大学2年以上であれば、編入学も可能ですから、もっと安くなるかもしれません。実はいま私も通ってるのです。大卒を「資格」と割り切ることで何とか教育されております。放送大学のポテンシャルについてはまだ私もわかっていません。例えば、新卒採用で「東京海上日動」みたいなところに入れる大学なのかどうか、知りません(年齢的に私が無理なのは確実ですが)。キャピキャピのキャンパスライフを諦めなければならないのは確かでしょう(やりようがないわけではないと思いますが)。しかし、いま本当に経済的に苦しくて、それでかつ私がここで書いた「資格としての学位」ということに少しでも説得されたのであれば、検討してみるのは損ではないと思います(放送大学について質問あったらコメントで聞いてください)。

最後に

いまの大学1年生の中にはせっかく受かった大学の敷地に入ったことすらない人がいるという話を聞いてショックを受けました。そのような人たちに向けて何も言えなかったことは、私の限界です。ごめんなさい。「リア充」(死語)とは程遠いキャンパスライフでしたが、私は私なりに幸福な一年生の時期を過ごしました。その場に居合わせることの重要性はいくら強調し過ぎても足りません。

にもかかわらず、いくつかの大学が早々と秋学期もオンライン授業を継続することを公表しています。こうした措置に対してはちゃんと怒らなくてはなりません。もちろん、感染リスク等の事実を精査した上で、声をあげなくてはならない。日本で高等学校までの教育を受け、その上で受験までさせられた人の場合、自分で声をあげるということはもはや難しくなっているかもしれません。しかしやはり、怒るべき時には怒らなくてはならない。ジムを早く再開しろと言って路上で集団腕立て伏せをするアメリカ人たちにも多少は見習うところはあるのです。大学に対してだけでなく、政府に対しても。OECD加盟国の「教育の公的支出割合」のランキングで日本は堂々の第1位(下から)であるという現実に対して、さらに、この割合の低さの原因が、大学に支出がなされていないこと(初等中等教育だけみれば平均並み)に起因しているという事実に対して。

ここでひとまず終えます。ここまで読んでくれた稀有な人には、ちくま新書から出てる広井良典の『持続可能な福祉社会』を読んで欲しい。元気でるよ。それじゃあお元気で。

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