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オリンピックの度に聞こえてくる声

 体育館のステージ上にはジャグリングをしている中年男がいる。彼はジャグラーでもあるが数学のPh.D.でもある、ピーター・フランクル氏である。季節は秋だったが暑かった。フランクル氏は何かを回しながら、聴衆である私たちには目を向けないで、ずっと話していた。その彼がおおよそ次のように切り出した。彼の日本語は流暢であるが、母語ではない者の独特の癖があった。

—— 皆さんは、オリンピック見ましたね? 私は、1秒も見ていません。何故でしょう? 私の人生には関係ないからです。

 私はこれを聞いたとき、愕然とした。その衝撃だけはまだ残っているがゆえに、こうしてわざわざ文章を書いている。その年には北京でオリンピックがあった。その夏の私は完全に受験生として過ごした。オンデマンド式の予備校(東進ではない)に毎日通っていて、毎朝、自習室が開くまでは、ファミレスやカフェで勉強し、自習室に入ってからは22時くらいまでずっと、冷房の効いた部屋で自習をしていた。そうした日々を過ごしていた。いま思えば、何と愚直な努力が許されていたものかと驚いてしまうが、受験生の努力というのはたいていそのようなものだ。
 そんな私でも、北島康介が2大会連続で金メダルを獲得したことは知っていて、ダイジェストでも見ていたと思う。一方で、前年までは野球部にいてプロ野球も好きだった私が、北京大会でGG佐藤が何をどこまでやらかしていたのかは、おぼろげにしか知らなかった。とにかく、オリンピックが開催されているのに1秒も見ないというのは不可能で、そんな選択肢があるということすら、想像もしなかった。それゆえ高3の私には衝撃が走ったのである。これにはフランクル氏の生い立ちに関するやや複雑な事情もあろう。加えて彼はハンガリーとフランスの二重国籍である。そうしたことがオリンピックへの関心を薄れさせる要因にはなるだろう。一方で、日本に生まれ、他の国で生活したこともない私には、オリンピックというものは当然見るもので、見るからには日本を応援するもので、メダルの数が多ければ多いほど「みんな」も喜んで、いち国民として共に誇りに思うというのは、疑いの挟みようのない価値観だった。
 いま、ちょうど自分の住む地域でオリンピックが行われている。これを書いている時点で、1秒も見ていないかと言えば、それは嘘になる。一昨日、リビングを通りかかった際、ソフトボールの試合がテレビで流れていた。ツーアウト満塁で、ヒットが出れば日本のサヨナラ勝ちだという場面。ツーアウト満塁一打サヨナラという場面を素通りするのは、たとえそれが中学野球の地方大会の1回戦でも難しい。私は立ち止まって、その打席を見守った。打者はアウトになって、タイブレークに入っていった。何故アウトになったのかは、もう思い出せない。私は今回も、オリンピックを見てしまった。リオ・オリンピックのときも、数分だけ見てしまった。当時の家にはテレビはなかったが、バイト先の休憩室にテレビがあったので、水泳とサッカーを見ていた記憶がある。そして、見るたびにあの声が聞こえてくる。

—— オリンピック見ましたね? 私は、1秒も見ていません。何故でしょう? 私の人生には関係ないからです。

記2021年8月

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