Vtuberという群像劇は形を変え文化を紡ぐ

 

 

自慢じゃないけどVtuberを見始めたのは輝夜月がバズる少し前、2017年の11月ごろだった。所謂古参、悪く言えば老害みたいなやつ。それから輝夜月やのじゃおじがバズってVtuberブームが始まった。

 

あの頃は良かった......ってマジで老害みたいなこと書いてもいいんだけど、今回は置いておいて。

 

2017年末頃は新着動画がすべて見れるくらいVtuberが少なくて、Twitterすら追えていた。加えて3D原理主義みたいな考えもあってキャラクター性(存在感)が重視されていた。例えばキズナアイとか、シロとか。キズナアイはキズナアイだし電脳少女シロは電脳少女シロだよね。だから、ただでさえ珍しいVtuber同士の絡みにはYoutuber同士の絡み以上の、キャラクター同士の邂逅という価値があった。

ヒヨコが生まれて初めて見た顔を親だと思うように、初めて見たVtuberがそんな感じだったオタク(僕のことです)はVtuberを群像劇として楽しむようになった。

これとかいいよね↓

勘違いされそうだけど、関係性(カップリング)オタクではない。群像劇として、というのは会社や魂まで含めての話。この会社はこういう思想でこういう施策を取ってる、とか、この魂はこういう前世があるから今こういう活動をしている、とか。

 

で、群像劇として楽しんできたわけだけど。今のVtuber界隈でその楽しみ方をするの、ちょっと難しくないかと思うわけです。なぜなら、Vtuber界隈が一つの世界に収まっていないから。理由は大きく二つ。

 

1. 数が増え過ぎた

簡単な話ですね。名前すら聞いたことのないVtuberがたくさんコラボで出てきたり、箱の新人が沢山いたり。漫画だったら『新キャラ追加でしか面白さを出せない駄作。☆1です』って書かれること間違いなし。これに関しては仕方ない。そういう世界だと受け入れるしかない。が、見るほうのキャパシティが限界を迎えた......。
 

2. Vtuberたちの人種が違う

おっと、人種差別ではないよ。Vtuberは大きく分けて三つの種類に分かれると考えている。電脳タイプと現実タイプと実在タイプ。それぞれ、電脳世界(PCの中)に存在しているタイプ、現実の人がトラッキングによってモデルを動かしている(バ美肉など)タイプ、キャラクターとして現実に存在しているタイプ。さらに三つのタイプの中で度合いも違ったりするから同じものさしで測れない。同じ世界で見られない。あれ?ってなった例だと、月ノ美兎がシロと共演してるのが変だな?ってなった。二人は存在する世界が違うのに普通に会っちゃうんだ?

 

乗るしかない このビッグウェーブに!と、どんどん勢いを増したVtuberだけど、波は全体の勢いを増しながら、細かい波へ分かれているのかなと思った。

Vtuber文化という一つの物語ではなく、たくさんの物語の集合がVtuberという文化を形作っていくんだろう。

 

 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?