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家族の崩壊と形成

20歳になった大学三年生の頃、私は一年生から始めた少林寺拳法に夢中になっていました。黒帯を取ったこともあり、やる気は満々。いつものように道場で汗を流していたとき、携帯電話が鳴りました。それは父と一緒に暮らしていた母からの電話でした。「もうダメかもしれない…。」電話口で涙ながらに事の経緯を話す母の声は、私たち家族がこれから崩壊に向かうことを知らせていました。

遡るのはさらに10年前。当時、私が小学校四年生だった頃、父の仕事の都合で、私たちは岩手から埼玉に引っ越しをしました。私たちが埼玉で過ごしたのは4年間。私が中学二年生になった頃、祖父が肺癌で入院することになり、父は岩手に帰省したいと会社に申請することになります。私は父とともに岩手に行くことを選択し、高校一年生だった姉は、埼玉に残ることを選択したのでした。「オヤジはオレがいないとダメになると思う。」私は自分自身で岩手に戻ることを決意しました。母は迷いに迷ったそうですが、最終的には、姉を一人埼玉に残し、岩手に戻ることを決めました。この環境の変化がのちに姉と両親の関係を少しずつ引き離していくことになります。

岩手に戻った私は、転校生である孤独感とともに、入院している祖父の見舞いに向かう日課が始まりました。一日一日と死に近づいていく祖父を見続けるのはなかなかの精神力を必要としました。祖父が亡くなり、農業を継ぐ気がなかった父は、農業を親戚たちに託すことになりました。ここで先祖代々続いてきた自分たちの手で行う農業は停止することになります。

私が高校生になってすぐ、父は再び埼玉へ赴任することになりました。ここでは私は岩手に残ることを決めます。私の面倒を見るために母も岩手に残り、父の埼玉での単身赴任生活が始まったのでした。この環境の変化が父と母の関係を少しずつ蝕んでいったのでした。

離婚の話が出たとき、私は何度も母と父に電話し、説得を試みてみました。しかし二人の出す結論は変わらないのでした。どう考えても生きていくのには厳しくなる方向なのに、どう見ても寂しさが原因でつまらない女の人に引っかかっているだけなのに、二人の結論は変わる事はありませんでした。この時私は、たとえ家族であろうとも、自分の意志だけではどうにもならないことがあるのだということを知ることになりました。

自分の家族が崩壊していくもう一方で、私は当時の妻と、将来どんな家庭を築いていきたいのかを会話していました。むしろ、何かを振り切ろうと一生懸命に妻と会話をし、身体を抱きしめていたのでした。これまでの家族が崩壊していきながら、新しい家族を築いていこうと未来に想いを馳せるのは、なんだか自分が崩壊と形成のど真ん中にいるようで、不思議な感覚を覚えました。私の精神も、少なからず浮き沈みしていた時期だと思いますが、妻はただ黙って私のそばにいてくれたのでした。このとき私は、「同じ思いを子供たちにはさせるなよ」と未来の自分と約束したような気がします。いろんな家庭があるけれど、私の人生に離婚は必要ないイベントかなと思ったのでした。


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