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一生懸命の絆

妻と出会ったのは、高校一年生の頃。野球部に入部したら、妻はマネージャーとしてそこにいたのでした。当時は私はまだ体が小さくて、身長は妻とほとんど変わらず、どちらが高いか背比べをしていたほど。私の体が小さいのは昔からで、「前へ習え」では一番前の人の「腰に手を当てるポーズ」しかやったことがありません。野球部の一年生の中でも私は特に小さく、体も細く、ひ弱な選手でした。少しずつ大きくなる体とともに、妻との心の距離も少しずつ縮まっていきました。

そして高校二年生の秋、妻と付き合い始めることになります。付き合うことが決まった次の日、妻から「私、今日誕生日なんだけど。」と驚きの発言が!(知らんし!) 何も用意していなかった私は、慌ててローソンに走り、10個つながったチロルチョコを買い、妻の首にかけてあげました。記念すべきはじめての誕生日は、そんな付け焼き刃の誕生日プレゼントだったのでした。

されどここは高校の野球部。妻との恋愛時間をまったりと楽しむ時間はありません。私が毎日の練習で、監督にケチョンケチョンにされる姿を、妻は毎日見てきました。おかげさまで、妻の前でカッコつけることなんて、最初からできる環境ではなかったのです。人前で良い格好をしたがる私にとっては、それがとても良かったのかもしれません。いつしか、私の中で「カッコいい」とは「何かに一生懸命になっている姿」という考えが定着していったのです。

スポーツの世界は、一生懸命やったからといって必ず良い結果が出るとは限りません。けれど、一生懸命にならなければ前には進めません。監督から受けるあからさまな嫌がらせで落ち込むときも、高校三年生の春の大会で私の悪送球が原因で試合を落とし泣きじゃくるときも、妻は静かに私の隣にいてくれたのです。「 またカッコいいところを見せたい!」と思うときは、私は決まってただただ一生懸命に練習に打ち込む毎日でした。

妻の自宅は、高校から徒歩10分のところにあったので、時間があるときは、私もしょっちゅうお邪魔していました。そのため、妻の両親とも昔からの顔馴染みとなりました。同じように、妻も私の両親とよく顔を合わせていました。だからこそ、私の両親が離婚するとなったときも、ただ黙って私のそばにいてくれたのだと思います。

そんな妻と籍を入れたのは、大学卒業と同時。私の就職先が名古屋だということが決まり、妻のお父さんから「名古屋に連れて行くなら、籍を入れてもらった方が安心する。」と言われたことがきっかけでした。理想の家庭について、散々会話してきた私たちにとってはとても自然な流れでした。そこからバタバタと結納を済ませ、二人で名古屋に旅立つことになります。結納のとき、私の両親はすでに離婚していたため、父は参加せず、母だけが挨拶をしてくれたのでした。両親が離婚したばかりだった私にとっては、結婚式はまるで魅力がなく、結婚式を挙げるつもりはないことを妻に伝えました。妻はただ黙って私に同意してくれたのでした。申し訳ないと思いながら、私は静かに未来の自分と固い約束をしたのでした。

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