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父との別れ

2023年2月4日、父が息を引き取りました。脳梗塞を患い、要介護状態になってから4年。コロナに感染し、肺炎になった父は静かにこの世を去りました。決して立派な家庭人とは言えなかった父ですが、子供の可能性を尊重することや、スポーツの世界の楽しさと厳しさを教えてくれた人でした。思えば、私は父から肯定され続け、自分の生きたいようにのびのびとやってこられたのでした。

母との離婚後、埼玉で一人働きながら暮らす父に早期退職を促し、一緒に浜松で暮らすようになってから10年。父との別れは、10年かけて練り上げた計画を実行に移す合図でもありました。生前、私たち家族の繁栄のために父が設立してくれた小さなプライベートカンパニー「合同会社ベリー」。浜松から遠く離れた岩手県雫石町にある実家を復活させるための方舟がついに動き出したのです。

父に早期退職を促したのは、明らかな身体機能の低下を感じたから。呂律が回らなくなり、歩くスピードが極端に遅くなった父は、どこへ行くにも車を使用していました。ある日、幼い長女と長男を連れて家族で父の元を訪れました。嬉しそうに孫との触れ合いを楽しんでいる姿を見ているとき、不意に「もし身体機能が衰えている父が交通事故を起こし、幼い命を奪うようなことが発生してしまったら」という考えが頭をよぎったのでした。世間では高齢者が運転する車の交通事故が増えている問題が取り沙汰されていた頃。家族との生活に幸せを感じていた私は、思い切って妻に相談したのでした。

「オヤジの身体を考えると、それほど先は長くないと思う。最後にできる親孝行として、浜松で孫と一つ屋根の下で過ごさせてあげたいんだけど、どうかな?」17歳(高校2年生)の頃から付き合い、私の両親が離婚する背景も全て一緒に見てきた妻は、私のお願いを快諾してくれたのでした。そこから始まった浜松での父との暮らし。一緒に過ごすようになってから、かつての不倫相手に加入させられたであろう膨大な数の保険が発覚したり、1,000万円の借金を抱えていることが発覚したり、いろいろなことが起きましたが、全て妻がキレイにしてくれたのでした。

案の定、父と孫たちとの生活はわずか6年で終わりを迎えました。ある日の明け方、「ドスン!」という大きな音を立てて倒れた父は、脳梗塞が発覚して要介護となり、施設での生活が始まりました。倒れるまでの6年間、驚くほど歩みが遅くなっていた父が、毎日ノルディックウォーキングに汗を流している姿は、子供たちとの生活を一日でも長く続けたいという思いが伝わってくるようで、胸が痛くなったのを覚えています。

そして、私の頭の中にあった、岩手県雫石町に放っとかれている実家の再生計画を聞いた父は、不自由になりつつある身体で法務局や税務署や銀行に赴き「合同会社ベリー」を設立してくれたのでした。「ベリー」という名前は、父が脳梗塞で倒れたちょうど一週間後に他界した愛犬の名前。家族が寂しくならないようにと名付けられた会社です。ベリーと一緒に、農業と民泊とテクノロジーをかけあわせた新しいライフスタイルを創っていくこと。私の妄想とも言える次世代の生き方。その夢に賛成してくれた父と妻は、一緒になって私の背中を押してくれたのでした。

雫石町で始める前に、浜松で練習してみようと始めた民泊が軌道に乗り始めた頃、父は他界することになりました。「雫石の実家が再生する姿を見てみたい。」と語っていた父の姿が、私の心に残っています。廃墟化してしまった実家が蘇る姿、私も父に見せてあげたいと思い続けてはいたものの、それは叶わずに別れの時を迎えることになりました。

父が亡くなった2月4日は、偶然にも合同会社ベリーの設立記念日でした。


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