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ミステリはやっぱり、世界が平和じゃないと

 こんにちは。伯林(ベルリン)です。
 十五歳、徳島県徳島市の中学三年生男子。
 好きな子の気を惹きたくて難解なミステリを読むふりを続けているうち、Dミスへ――というのは真っ赤な嘘であり、私のプロフィールは全くもって秘密ということでご容赦願いたいと思います。

 先月ペットが死にまして、ミステリが読めなくなりました。
 ただでさえ悲しみが深いのに、さらに悲しみや苦悩がある読みものを、自ら進んで読むことができなかったのですね。

 外国で戦争が始まったときは、小説を書くことが虚しくなりました。
 現実世界で毎日大量の人が殺されているのに、わざわざフィクション上で新たに人間を殺したり、悲しい思いをする人を生み出すことに、なんの意味があるのか……。

 基本的に、ミステリという読みものは、誰かの悲しみやつらさの上に成り立つものなのだと思います。
 死体が転がらなければ始まらない。死んでしまった人は無念だし、その周りにいる家族や友達や同僚や、多くのひとたちに衝撃と動揺を与える。悲しみが広がる。
 それに、もっと小さな、たとえば飼い猫探しに翻弄される零細探偵事務所のコメディだとしても、猫がいなくなった飼い主はかわいそうだし、猫自身もかわいそうだ。
 やはり悲しみがあり、それを発端にしないと、物語が始まらない。
 ……と考え始めると、ミステリを書くという行為が、さみしく、そして、現実世界の平和を求めてやまないものというように思えます。

 ミステリを楽しく読めるのは、日常がめためたに平和で、自分も家族も友達も安全で文化的生活を送れていて、本の中で描かれる悲しみや怒りを受け止め感動できる余裕があるとき――やはりミステリは、溺愛していたペットが死んだ直後には読みづらいものなのかもしれませんね。

 世界が平和になりますように。
 日本人の私も、どこかの国の貧しい子供も、等しく読書が楽しめるときが来てほしいな。

イラスト/ノーコピーライトガール

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