おいしい記憶


今年の冬はジョンストンズのカシミヤの赤いチェックのストールを買った。伊勢丹でもお高い巻きスカートも買ったんだった。それもやっぱり赤いチェック柄だった。あたしは赤いチェック柄に目がない。勇敢で優しい、そんな女の子に生まれ変わったような気持ちになれるから。

小学校低学年の頃、あたしが通っていた小学校ではまだマフラーと手袋が規定のデザインでは無かった。身体よりも大きいランドセルを背負って、あたしはやっぱり赤いチェックのマフラーを巻いていた。

朝、家を出る前は必ずママが玄関でマフラーを丁寧に巻いてくれた。ママはマフラーの中からあたしの髪の毛を両手で優しく抜き、そしてパチンとあたしの耳元で指を鳴らす。ママはあたしを抱きしめ、少し揺らし、身体の中のお水を混ぜてくれる。それはあたしにとっておまじないのようであった。ママはピアノの元に駆け寄り、少しだけ急ぎながらお辞儀の和音を弾いてくれる。あたしは革靴を履いた爪先をコンコンと鳴らし、ママに向かってお辞儀をして家を出る。あたしはそんな朝を何度も繰り返しながら大きくなっていった。

あたしはひとりでマフラーを上手に巻くことが出来なかった。あたしの細い首にお利口さんに収まっていたはずの赤いチェックのマフラーは帰り道には必ずと言っていいほど首元でたんこぶ結びにされて居心地が悪そうに拗ねていた。

あたしはその日も首元に赤いチェックの大きな団子をぶら下げながら、似たような背格好の仲良しのちびっ子ギャングたちと一緒にえっちらおっちらバス停に向かって歩いていた。
その頃のあたしたちは、学校の蛇口からオレンジジュースが出るようになればどんなに良いものかと真剣に悩んでいて、そのことは専らちびっこギャングたちの間での議題であった。
あの頃のあたしは白線の上しか歩かないと決めていたし、蟻んこの隊列を巣穴に帰すことに夢中だったりしたものだから、いつも下を向いて歩いていた。その日はいつも無い場所に電柱がいきなり現れてしまったような気でいた。
あたしの目の前には付属高校の制服を来た男子高校生が立っていた。彼は跪いてあたしと目線を合わせ、たんこぶ結びにされた赤いチェックのマフラーをほどいて、綺麗に巻き直してくれたのだった。それはよく男の子がするようなフロントノット巻きであった。苦しそうだったから と言い残し、彼は彼の友達の輪に駆けて行った。
あたしは帰り道のバスの中で腕に生えている腕毛や足にある無数のかさぶたが無性に恥ずかしくなり、すぐに噛んでしまう深爪の匂いを嗅いだ。彼は今日晩ご飯に何を食べるのかな、ご飯を何杯おかわりして、部屋で何の音楽を聴くのかな。宿題ちゃんとやるのかな。
バスの中では後部座席でのお決まりの西部劇ごっこが繰り広げられた。そんな日常からはるか遠くに吹き飛ばされた場所であたしは窓枠に肘をついて物思いにふけ、彼に思いを馳せていた。

バスの車内で窓枠に肘をついていたら、ふとそんなことを思い出した。ちょうどバスの車内にはあたしが通っていた小学校の子供たちがわんさか乗っていた。懐かしい制服とランドセル。みんな小さくてぷりぷりしていて、綺麗な海を自由に泳ぎ回るお魚さんみたいだった。まだ今からならなんにでもなれる奇跡のお子さんたち。あたしだってあの頃はバレリーナにだって、弁護士にだってなれると思っていた。懐かしい停留所で子供たちが我先にと降り出した。あたしの右斜めに座っていた男の子2人組が座席に防犯ブザーを忘れていることに気付いたとき、あたしは咄嗟に彼らを追いかけていた。あたしはどうしても、彼らに、そして幼い頃のあたしに触れてみたかったのだと思う。

バスを降りた途端、彼ら2人はお尻に火がついたように駆け出した。あたしはもう何年も全速力で駆け出していなかった。
あたしだってあの頃はそりゃあバスを降りた途端、駆け出していた。好きな男の子がいたから。2つ学年が上の、ちょっぴり吃音のサッカークラブに所属していた生徒会長。彼のことが大好きだった。青いユニフォームを着て、毎朝グラウンドで練習している彼の姿を見たくてジャングルジムのてっぺんを目指して駆け出していた。彼のことが本当に大好きだった。

防犯ブザーを忘れた彼らはあたしを置いてぐんぐん走っていった。あたしの持っていた籠バッグは腕に擦れ、ビニール袋の中のパンとサラダはわしゃわしゃ飛び跳ねて踊った。
あたしは確かそこのひどい段差で、付属の幼稚園時代にお馴染みのちびっこギャングたちとすっ転んでみんなで仲良くお股を切った。
そこの曲がり角の歯医者さんでは、夏の暑い帰り道にはお水を飲ませてもらっていた。
ついにあたしは彼らに呼びかけた。ねえ。そこの走ってるおふたりさん。止まってよ。
振り返った彼らの表情は、見慣れすぎたかつてのあたしの同級生たちのようであった。

忘れて無くしたりしたらママに叱られるよ。彼らは照れたようにあたしの手から防犯ブザーを取り、大切そうに制服の半ズボンにしまった。
あたしは君らと同じ小学校を卒業したの。だからあたしは君らのずっとずっと先輩なの。
彼らはそうなの?と言って、あたしを見上げた。あたしよりもうんと背が低かった。
目を凝らすと、そこには赤いチェックのマフラーを巻いた小さい頃のあたしがいたような気がした。ちびっこのあたしはいきなり現れた見知らぬ大人に萎縮してちょっぴり緊張しているように見えた。彼らは信号が青に変わり、カッコウの音色と共にまた駆け出していった。そしてあの頃のあたしもしゃぼん玉のように弾けて、消えた。

振り返ると、学校名が印字された腕章をつけたあたしのかつての担任の先生が近寄ってきた。あたしが洗濯板を学校に持っていくことにすっかり凝っていたあの頃、帰りの会の後に必ず藁半紙で洗濯板を丁寧に包んで持たせてくれていた先生。奥さんとロールケーキばっかり作っていた先生。先生の目の奥が歯に矯正装置をつけたあたしを見つけてくれた様な気もしたけど、あたしは先生にとっての教え子でも、卒業生でもなく、1人の親切な通りすがりのレディとして振る舞うことにした。
あたしたちはちゃんと大人だから。あたしだってそれなりにもう大人になったのだから。ほんとだよ。あのあと、色んなことがたくさん、たくさん、あったのだから。だから随分綺麗になったでしょ。

あたしは次のバスをしばらく待ってもう一度バスに乗った。あたしの隣の席は空いていた。
バスのドアが閉まる頃、騒がしくあの頃のあたしが乗り込んできて、車内を見渡し、あたしの隣にちょこんと、そしてどこか遠慮がちに座った。そしてフォア文庫のオペラ座の怪人を少し読んだかと思うと、あたしの肩ですやすやとお昼寝を始めた。あたしは彼女の前髪の生え際の匂いを胸いっぱい吸い込んだ。汗とお日様の混ざった匂いがした。今日は洗濯板を持って学校に行かなかったんだね。そっと彼女のほっぺにキスをしたら、その子はくすぐったそうにぐずぐずしていた。あたしは今日、今日、あたしは。どうしよう。あたしは、今日。あたしは今日好きな男と別れてきた。



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