2022/04/11


 タイル張りの冷たい床に素足のまま椅子に座って爪先立ち。夕方と夜のちょうど真ん中の頃。流行る海外ドラマよろしく今にも大量のライフルが並べられそうな同じくタイル張りのキッチンには、バターが雑に開けられ、虫が止まり、水だし紅茶は汗をかいてはタイルにお漏らしを溜めて膨らんだ水溜りを作る。その形は魂の様だ。羊飼いの魂の形はきっとあの形をしていて、潰れた楕円は羊飼いのお気に入りの皿の様。毎日決まった時間に卵を食べては緑の上を歩き、星に降られて白い煙を心の琴線に星屑が引っ掛かって音を鳴らす深くて深い柔らかいところまで、吸って吐いて吸って吐いて、奥へ奥へを繰り返す。キッチンに取り付けられた出窓の先は雨。季節は夏真っ盛り。オレンジと水色を混ぜたような緑色の雨が、紺色の背景に水しぶきを散らせる。うるさいだけの虫はもう眠りについている。好きな男との沈黙を破る役目を担う虫だけがこの時間に起き出してくる。大きな庭には野良猫が遊びに来る。それを祖母は許さない。ポトフに隠し味の唾を入れる祖母は野良猫に石を投げる。野良猫に投げるための小石が出窓の縁に並べられていて、真夜中こっそり出窓を開けて煙草を吸う私の神経は研ぎ澄まされる。庭の木のブランコには黄色のビニールシートが被せられて只今修理中。そのブランコに傷だらけの不良が捨てられていたことがある。私は硬くなったフランスパンを、芸能人のゴシップやご近所さんの噂話に気を散らしながら咀嚼する。咀嚼をするたびに日焼けした肩にキャミソールの綿が擦れて小さな火花を散らす。首が攣る。こめかみが重くなって奥歯に風が吹く。ヒュウ。胸が掬われて椅子から身体が浮き上がったかの様。好きな男と雨に会うのが好きなんだ。人は足が濡れると大体のことはどうでもよくなってしまうでしょ。明日も早起きだということ、豚肉が解凍したまま出しっぱなしであるということ。それら全てのことがどうでもよくなって、終いには、そんなことに拘る人間を向かうの島に追いやりたくなってくるでしょ。だから好きなんだ。足が濡れて、肩も濡れて、寒い。ずっと暗くていつから眠いのか、いつまでお腹が空いているのかもよく分からない。でも、その男のことが好きだということだけは分かる、そんな雨の日が好き。今日は見ての通りの雨。恋人たちはよく、土砂降りの中、路地裏の雑居ビルの壁に背をぶつけながら接吻をするけど、私達には今夜のデートの予定は無し。リビングで笑顔で過ごせないような恋愛は辞めたのよ私。先週、そこの庭のブランコで、サワークリームを塗ってから剃刀を滑らすと毛穴が目立たないって聞いたもんだから、早速友達とムダ毛を処理したわ。その時にそんなことを話したばかり。だから、逢えない日でも、私は目の前のフランスパンをこれでもかと楽しめる。趣味の悪い私は硬くなったフランスパンに苺ジャムを塗りたくっては高い位置で無造作に結った団子に指を入れたり出したり。イルカが輪っかを潜るように。水飛沫の代わりに肩にパン屑が積もる。何かを忘れている気がする振りをする。憂鬱な表情を作って外の雨を憂いでみてみせる。鼻腔に緑の匂いが。目の前の通りをランクルが排気ガスを派手に噴き上げながら通っていく。緑と排気ガスの匂いが混ざるとステーキハウスのにおいがする。私は何かに胸を膨らませてる。期待している。心がいつでも跳ね上がっている。それ故のおおらかさ、豊かさを持っている。そのおおらかさと豊かさは、裏返せばいつまでも若くないということだ。いつまでも若くないということはいつまでも続かないということだ。いつまでも続かないということは、みんなと同じ話を上手にするようになるということだ。天気と地方のご当地飯と家賃と手取り、挙句の果てには最近の体調の話。私、埃っぽいタイルの床に爪先ダチの親指で器用に模様を描いて。楽しい時は大きな円を。悲しい時はポツポツと点を打つ。私はポツポツと点を打つ。悲しいことが大好きなどっかの皆さんの真似。右足の親指の外側が灰色に色付いて、皮が少し厚くなる。擦れた。擦れるとやっぱり厚くなる。何が。面の皮。面の皮が厚くなる。横から見ると、顔が前に前に伸びていくんだって。そんなくだらない話を、持ち合わせている無邪気さの上にほんの少しの可愛い程度の邪気を乗せて、そして、最後の仕上げに実年齢から2歳引いて、そんなような振る舞いをしてみせる。そして、叱る振りをされて叱られる振りをする。3ブロック先から女どもの嬌声が聞こえる。耳を澄ますと私の名前が呼ばれている。ママがワイングラスを持ってくる。今日ワイン飲むんでしょ。割らないでね、高いんだから。さっき通ったランクルは友達の彼氏のお姉ちゃんの元カレのもの。そのランクルにみんなで乗っかって隣町までジーパン買いに行ったことがある。ここまで全てのものが揃えられている世界で、私が主人公の私だけの絵本の世界で、それでもまだ心に隙間風が吹いてしまうようならば、もう、それは、蓮根柄の風呂敷を首に掛けて旅に出た方が良い頃であるのだ。ええいままよ。死ぬのが良いわ。

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