2023/02/06


 一歳四ヶ月になる娘は私の右膝に出来たかさぶたを見ると指を指しながら露骨に嫌がる。後退りをしてテーブルの下に隠れてしまう。あんなに嫌な顔をしながら嫌がる姿はどの教科書よりも正しきものだと思う。じゃあ私もあの時、あの真夜中、外は土砂降りだった。そんな中自分の股に両手を当てながら娘が私のかさぶたにするような顔をして、"中には出さないで"とでも言えば良かったのか。なんて苦笑いしたりしてね、母娘だからよく似てるんじゃないかな、なんてまた、そんな事を言ってみたり。その右膝のかさぶたは私が男を追っかけて作った傷。離婚をしてから今宵、男の為に使った真夜中は実に数回ほど。こんなこと私がしてるなんて知ったらあの娘の父親は親権を主張したりするのかな。家の前、タクシーを待たせてまで乾かすのは娘の柔らかい髪。死ねるよ。お前の為なら。『雪、降ってるよ』それは男からの連絡。"雪がもっと降る所にある温泉に入りに行こうよ"どうせそんなことを言いながら私の手をその男は簡単に握るのだ。私はストッキングを最後まで履きたがらない。その男が頭を打つなどし、いきなり私のことを忘れてしまったという事態になった時、きっとその晩のディナーはママと過ごすことになるべきでしょ。たとえ数分であったにしろ自分の脚の形に形成される一度脚を通されたストッキングを、晩御飯の残り香匂うリビングで脱ぐ虚しさはマスカラを落とすことよりも耐え難い。きっとその男が私を思い出すことなんか無いんでしょ。だから私は家を出る寸前まで、香水を浴び終わったあとでさえ、ストッキングを履かない。脱いだストッキングを口に詰め、冷凍庫の中に頭ん突っ込んでは泣いたことが今までに何度もある。"うるせえよ" そう何度言われても黙ることができなかったあの日の自分を制する為に脱いだストッキングを口に詰めたのはラブホテルのベッドの上。そして震えていたこともある。『愛してます愛してます愛してます』その男は私を張っ倒したあと、花園神社で買ったハムスターを窓から捨てた。本当だよ。娘は私のかさぶたを指指しながらやっぱり嫌な顔をして少し離れたところから見ていて、その様子は幼い時の私にそっくりで、『なんね。おやすみ。早く寝なさいよ』そう私が声を掛けると、よちよちと私にやっと歩み寄り、私のかさぶたをお構いなしに踏みつけて私によじ登り私の鼻を丸ごと口に含むのだ。マスカラがたっぷりと塗りたくられた睫毛の影が余りにも無垢に透き通る娘の頬に影を落とすものだからその影を指でなぞりたくなり、なぞる。娘の輪郭に沿って唇を這わせます。娘の輪郭を知るのか、自分の唇の形を知るのか。どちらなのかは分からない。それは大きくなったあの娘が決めるものだと思うのだ。私があの娘を愛していたかどうかはあの娘が決めてくれるのだ。あの娘はひとりの女として私が作った傷を決して赦すことをしない。だから指指して泣くんだよね。真夜中のタクシー、そして首都高。お前のこと考えてるよ。免許を取ったあの娘の初めての首都高のことを思ってる。車は何乗るよ。ママのファーストカーは赤いビートルでしょ。あなたは?どうせ興味無いとか言うんでしょ。そんなこと考えてるよ。朝帰りをした翌日の日曜日。2時間眠ってあの娘と向かい合うリビングのテーブル。前の晩から地続きに続くことなどない、無理矢理にでも差し込まれた今日という朝陽。好きなのだ。こうゆう朝が。かさぶたはまだ痛む。


タートルネックの下は素肌。パンツだけを浅く引っ掛けて、ベッドに腰掛けBiCのライターが灯す火柱を親指で寝かせなぶる男の子に飛びつく。そして押し倒す。なんとなく分かるんだ。シーツについた皺を見るだけで分かるんだ。私たちがどうなるのかが、分かるんだ。3回頭を振る。ゆさ、ゆさ、ゆさ。手櫛で分け目を雑に掻き上げ、『田中みな実みたいでしょ』私は、その固くて張り詰めた本当の意味では私を受け入れやしないその肌が好きなのだ。皮膚の下の筋肉がうねりながら私をシーツに沈ませたりはたまた宙に浮き上がらせたりするけれど、その腕は一体今まで何を抱いてきたというのだろう。その腕が私に回される時、私は思うのだ。私はこの腕にあの娘を抱いてきたのだと。その腕でその腕を隠して大人しく抱かれ、やっぱり思うのだ。この腕は私から最も簡単に離れるでしょう。私はあの娘を離さないよ。眠った男の子を置いて、散らばった服たちをこうだったよなぁとなんとなく着る順番に椅子にかけてから先に部屋を出る。タクシーの中で、あぁ、私、やっぱり人の親になったのね。そんなことしたら余計に終わりだね。シーツの皺を見なくても分かる。そんなこと。かさぶたがやっぱり痛む。強く痛んで、柔らかく熟し、風に撫でられまた強く痛む。それは私そのものだ。それをあの娘が指を指して嫌がる時、私が痛むのだ。女が痛むのだ。男が作ったそのかさぶたを、それをしていいのは私だけだと、娘が、あの娘が、悲しがって、怒るのだ。ねぇ、知っていますか。私があの娘に語りかける際のそれのことを。私はどこまでいってもあの娘のものだ。


 私が部屋の中で突っ立ったまま缶ビールをかっくらう時、それは私に好きな男がいる時だ。私が部屋の中で薄着でいる時、それも好きな男がいる時だ。私が誰かと話す時、笑顔で覗き込みながら話すようになる時、野菜売り場でブロッコリーの重さをご丁寧に計り比べするようになる時、それは好きな男にまだ好かれている時だ。私が実家の屋根裏に夜な夜な籠る時、それは好きな男のことが好きということだ。その男が私の元から去った時、私はきっとまたタクシーの中で足を組みだすのだろう。屋根裏部屋にあの娘の洗濯物を干すのは深夜の2時。カップ焼きそばには割り箸がとっ散らかったまま引っ掛かっている。金になる着物ならない着物、ルイヴィトンのスーツケースに琴に兜にお雛様。幼い私が書いた書き初め、作文。好きな男が出来たんだ。付き合っている男がいるんだよ。よく分かんないタトゥーを腰にいれたときも、紙食って曲がりに曲がって四角いはずの屋根裏が丸い空間となり私たちを閉じ込めたよね。私たち。隣には友達がいて、雪が降る夜、私たちは集まったこの屋根裏に。横田。親知らずを抜く手術中にメスが歯茎の神経に触れたことが原因でそいつ、横田の右手はいつも震えていて、だから私が横田の代わりに横田のグラインダーを掃除する。バイオリンのケースの中には横田のボングが突っ込まれていて、横田は今から私の祖母を叩き起こそうとしている。『てへりんこ、暗くなんなよ』横田はそれしか言わない。中卒だから。言葉を知らないのだ。『泣くなよ』『女め』横田はそう言うと私の肩を抱いて、たまにはこうして肩を並べて飲んでと。私たち、今、本当にヘネシーをクラッシュアイスに注いで飲んでいるのだ。好きな男が出来て、横田の隣、ママが見たらきっと卒倒する。屋根裏で六角香焚いて、その火を見ながら膝を抱いてる。目線の先にはあのかさぶたがあって、その先には好きな男が口に含んだ私の足の指がある。このかさぶた、治るのかな。このかさぶたが治った頃にまた増えたりして、そんなことを繰り返していくうちに横田が多分捕まるんだ。あの娘も話せるようになるかもしれない。"嫌だ" "ババア" ''やばい" それよりもっと話すようになるかもしれない。その時、好きな男にはまだそばにいて欲しい。横田が赤い目をした石になる前に私は横田にこう言うんだ。屋根裏の小窓から外の雪の白さ。それは胸がすく思いだ。『私は、あの娘に恥ずかしい恋愛はしないよ』なんて胸がすぐ思いなのだろうか。『じゃあ早くかさぶた治せ』横田はそう言って人んチの屋根裏を漁って一通のカナダからのエアメールを引っ張り出してくる。消印は1993年。これ知ってる。私のパパからママへのラブレター。横田はそのエアメールに貼られたエリザベス女王の切手を私の膝に貼る。横田はそうゆうことをするんだ。そうゆうことをしてるうちにきっと捕まってしまうんだ。ねぇ、知っていますか。俺に賭けてみませんか。そう言った誰かのことを。じゃあこの店ん中で一番でかい声を出してよ。そう言った私のことを。おまけにそのワイングラスを叩き割ってみてよ。その男がなんて叫んだかは分からない。飛び散るガラス片と紅のとろみが宙を舞う中私たちは手を繋いで駆け出していた。好きな男が出来たのである。この物語に名前はまだ無い。横田はボングを抱えて私に言うんだよ。わんわん物語でいいんだよ。犬が一番偉いだろ。そして笑う。笑って笑って笑う。私、やっぱり雪を見る。雪を見てちょっと泣く。大切なものが、あまりにも多すぎて、重すぎて。そして好きな男が出来たのである。この物語に名前はまだ無い。

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